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ふるさと百科 能登川てんこもり 【人とひと】

人とひと People

人とひと(PDF 18.3KB)

「えろうおきばりやす」「ようあんた」
―昔は野良で、すれ違いざまにお互いをねぎらって交わされてきた言葉です。
人とひととの出会いを大切にし、先人を敬い、物を大切にしてこそ暮らしの源である心の豊かさも育まれるのではないでしょうか。
「おおきにありがとう」そんな言葉を掛け合い、いたわり合って、かけがえのない子孫に、水と緑にめぐまれた能登川のやわらぎの心を伝えていきたいものです。

People
In olden times,the language in the fields amongest the people,were and .
Greeting the elderly was important,ancestors were meticuously respected,possessions were looked after valuably-in this way a rich and wholesome life was ensured.All said Ookini and Arigato,all worked together for prosperity.
This area had a heartful warm way of communication amongst its inhabitants.

【清流にゆらぐセキショウモ(伊庭)】

◆着る・着飾る Apparel

◆着る・着飾る Apparel(PDF 1.12MB)

いま能登川は、自由で何でもありのファッションでいっぱいです!
若い人たちは茶髪にピアス、ずり落ちそうなルーズソックス。
中高年は地味な基調でハイセンスな服、それぞれ個性豊かです。

平成8年(1996)秋から9年夏にかけて、駅周辺で、出会い、すれ違った人々の服装です。10年後、20年後に「こんなん、着てはったんや!?」……
これも文化の流れの一つと思い、掲載してみました。

【もしもし いま、どこ?】
【何してる?】

◆制服

1 つばめ保育園
2 かもめ保育園
3 こばと保育園
4 めじろ保育園
5 ちどり保育園
6 ひばり保育園
7 第一幼稚園
8 第二幼稚園
9 東小学校
10 西小学校
11 南小学校
12 北小学校
13 中学校
14 能登川高校

◆食べる Eating Trends

◆食べる Eating Trends(PDF 236KB)

我が家で収穫したものを料理していただく。こんなことが少なくなり、肉食・パン食の普及、月に1度は外食と、ものすごい変化をとげた食生活。
伝統行事などに残る以前の面影も、いつまで続くでしょうか。

食の変遷

それぞれ各人の飯台になったり、食器収納箱になったりした箱膳の時代、ちゃぶ台を囲んで畳に座って家族みんなで食事をした時代、そしてテーブルと椅子の現代。食事を取り巻くこんな変化を見ても、その移り変わりの激しさに驚かされます。
しかし、いつの時代も食卓で交わされる家族の楽しい会話は、幸せの象徴のような気がします。

川南寿さん宅での親・子・孫三代のにぎやかな食事風景

「ファースト・フード」―こんな言葉も聞き慣れました。
ハンバーガー、フライドチキン、すしなど、外食や持ち帰りが簡単な食品です。そのファーストフードの代表ともいうべきあのマクドナルドが、都会にしかないと思っていたあのマクドナルドが、平成8年(1996)4月、能登川にもできました。

盆、正月、お祭りにはごちそうが食べられると喜んだのはもう昔。いつもグルメグルメの現代にあっては、お正月のお節料理(右)や百日の食い初め料理(下)などに、昔のごちそうの片鱗が感じられます。

◆学校給食 おいしいネ たのしいネ

能登川町内の学校給食のはじまりは、昭和28年(1953)のことです。この年、南小学校で週2回の給食がはじめられました。
その後各校とも独自の変遷を経て、昭和40年、中学校の隣に給食センターができ、全小中学校の給食がここで作られるようになりました。昭和58年には幼稚園の給食開始が加わり、現在約3200食が調理されています。
「脱脂粉乳」「先割れスプーン」「ご飯給食」と、その年代によって思い出す言葉も違っています。戦後の食糧難による子どもたちへの栄養補給を目的にはじめられた学校給食も、40数年を経たいま、その頃とは違った目的も生まれています。でも、いまも昔も給食の時間のにぎやかさは変わらないようです。

1日に3200食というと、たいへんな量です。給食センターの調理員さんたちは、子どもたちに喜んでもらえるように大きなお鍋や大きな流し台を使って、一生懸命給食を作っておられます。

予定献立表(平成9年6月分)
日 曜日 献立
2  月  麦飯/牛乳 肉じゃが煮/キャベツのオイル漬け/納豆
3  火  米飯/わかめふりかけ/牛乳 魚の塩焼き/アーモンド和え/ワンタンスープ
4  水  加糖パン/牛乳 焼肉とカシュナッツ炒め/ミニフィッシュサラダ/ポテトスープ
5  木  麦飯/牛乳 ハンバーグ/塩野菜ドレッシング/豆腐汁
6  金  食パン/牛乳 八方菜/蒸ししゅうまい/あんにんどうふ

直会の終了を告げる―茶粥
「乙女の直会は、茶粥が出たら終わりや」
こんなことを聞かれた方も多いと思います。とくに乙女浜が有名ですが、能登川町内には、宴会のあとの口直しに茶粥が出る風習が残っています。
文字どおりお茶をだし汁にしたお粥のことですが、その家その家の味があると言います。まるでおふくろの味といったところです。

◆住む Living Styles

◆住む Living Styles(PDF 182KB)

現代―それは人間が創りあげた“便利さ”を追求した世界です。
コックをひねれば水・ガスが出て当たり前の暮らし。
カマドやタライでの生活は昔話となり、昭和も遠ざかるいま、「住」の写真を残しておこうと思いました。

家屋の今日

古い時代のよさが残る屋根に葛屋があります。現在、町内には45戸ほどあります。雨漏り・火災の防止のためにトタンで被っている家もあります。
近年、葦・茅等の入手難と職人不足から、この屋根は姿を消しつつあります。
一方では、時代の要求に沿った集合住宅が増えてきました。

入母屋造り
上部は切妻のように二方へ勾配があり、下部は寄棟造りのように四方へ勾配がある屋根のことを入母屋造りと言い、木造の和式住宅に取り入れられ農村部に多く見られます。

寄棟造り
四つの流れを組み合わせた屋根、大棟の両端から四角に棟が降りている屋根を寄棟造りと言います。正方形平面で一点集中の棟になっているものもあります。

入母屋造り葛屋
合掌造り、切妻造りの葛屋もあります。職人の技と伝統的な「ふるさとの形」が残って、郷愁を感じさせてくれます。

切妻造り
棟を境として両方に流れをもつ、書物を半ば開いた形の屋根を切妻と言い、ほとんどの家はこの形で、洋式住宅にも一部取り入れられて新しい住宅にも見られます。

高層住宅
平成7年(1995)、佐野に洋式住宅のマンションが建ちました。鉄筋コンクリート造り13階建て、戸数は98戸あり、間取りは2LDK~4LDKで面積は56~92m2の規模になっています。

◆家具

◆家具(PDF 195KB)

いま、どこの家庭にも「物」があふれています。そして、もったいないような物が使い捨てされる時代です。
そんな中で大切に残されている家具もありました。家族の長い歴史や思い出が染み込んでいる大・小の家具類です。
土蔵の中には明治時代の嫁入り道具も保存されて、家具の命の長さに圧倒させられます。

◆お風呂

◆お風呂(PDF 213KB)

お風呂は、昔たいへんなご馳走でした。食事と並ぶご馳走だったのは、水道もガスもないので、沸かすのにとても手間がかかったからです。釜を据えて下から、わら・薪を焚いて沸かす五右衛門風呂等でした。
いまは蛇口をひねるだけで泡が吹き出すジェットバスもあります。
このページではお風呂の今昔として写真を並べてみました。お風呂の名前は、人によっていろいろな呼び方をされています。

桶風呂 お湯も少なく暗いお風呂でした。
五右衛門風呂(長州風呂) 石川五右衛門が釜ゆでに処せられたときに用いたという俗説によってこの名がついています。

【煙が目にしみる焚き口】
【タイル風呂】
【ジェットバス】
【ユニット風呂】

◆おくどさん

◆おくどさん(PDF 271KB)

「くど」「へっつい」「かまど」とも呼ばれ、江戸時代には粘土を固めて造られていました。当時は、一家に一台の「おくどさん」がふつうでしたが、時代が経つにつれ大小数個のかまどを横に並べた大家族用のものが主流になっていきました。明治以降、石やタイル、コンクリートで造られた「おくどさん」も現れるようになりましたが、電気炊飯器が出回るようになるとしだいにその姿を消していきました。
(注:かまどの神を「お荒神さん」と言います。「くど」も「お」がついて「さん」づけです。とてもぬくもりを感じます)

【お寺のおくどさん】
【家庭用おくどさん】
【プロパンガス使用の台所】
【茶釜が似合うおくどさん】
【燃料にコークスを使用した業務用おくどさん(製菓)】
【手軽に場所替えできるおくどさん】
【電化された台所】

◆井戸

◆井戸(PDF 243KB)

おいしい水の絶対条件は、1)水温が13度前後、2)浄水場での塩素や凝縮沈殿剤の投入量が少ない、3)匂いや色がついていない、4)鉄やマンガンが少ない、等々。
なかでも水温による影響がいちばん大きいと言われています。
最近、水道水がおいしくないと言って浄水器をつける家庭も多く見られます。

【つるべ等で汲み上げる掘井戸】
【管井戸(手押しポンプ)】
【電動ポンプ】
【上水道(左)と井戸水(右)】
【上2点 昔は水の出もよかった井戸(能登川)】
飲み水だけ金気を取るために丸い井戸の中に木炭、しゅろの皮、砂を入れて漉(こ)しました(城東)

◆トイレ

◆トイレ(PDF 315KB)

“ご不浄”“かわや”“便所”“お手洗い”“せっちん”“はばかり”
……これらはすべてトイレを意味する言葉です。ひょっとしたら若い人は知らないかも……。

【し尿は肥料として田畑にまかれました】
【板張りの便所】
【多機能化したトイレ】
【和式便所】
【和風便所と手洗いタンク】
【屋外に造られた便所】
【茶室に据えられた木製便器(明治時代)】
【家族用便所(明治時代)】
【使用人用便所(明治時代)】
【男子用便所】

◆家周辺の工作物

◆家周辺の工作物(PDF 131KB)

以前から親しまれてきた丸型1号ポストは、その後、角形のものに代わりました。
また、有線公衆電話は放送開始25周年を記念して町内12カ所に設置され、徐々に数も増え便利になりました。昭和54年(1979)には上水道と消火栓、昭和62年からは下水道工事もはじまり、マンホールが急増しました。

◆捨てればゴミ、分ければ資源

◆捨てればゴミ、分ければ資源(PDF 176KB)

私たちが生活していく中で、必ずついてまわるのが廃棄物です。生ゴミ・大型ゴミ・屎尿など、いまのいままで手にしていたものでも、いったんゴミとして認識されると、それはとても汚いものになってしまいます。私たちはゴミになる前に分別して、環境美化や省エネに努めなければなりません。

●大型資源回収
粗大ゴミとして自治体が回収する冷蔵庫は全体の約2割です。人間の知恵がつくった物質フロンはオゾン層を破壊して、恐ろしいガンの発生にもつながります。

●汲み取り
最近、カラフルなバキュームカーが目立つようになりました。
昭和62年(1987)度より下水道の設置が進み、徐々に町の姿も変わりつつあります。

●廃品回収
便利になればなるほど、豊かになればなるほど、廃品物の量が増えます。
もう一度使える物は使おうと、保育園・小中学校が資源の回収活動を実施しています。

●ゴミの回収
【燃えるゴミ】
【燃えないゴミ】

◆村落

◆村落(PDF 194KB)

水郷は能登川の風土の中で残ってきた貴重なものです。そこには、水路の風景を見ることができます。なかでも地域の顔となるふるさとづくりの工夫がされ、環境美化への取組みが行われています。
昔のままのきれいな場所には、安らぎと潤いが感じられます。

【人通りの少ない路地(能登川)】
【風情(ふぜい)こそ土地の人の心】
【古材(舟板)を再利用した蔵】

◆新しい住宅地

◆新しい住宅地(PDF 216KB)

見渡す限りの田んぼがいつの間にか開発され、舗装道路が縦横に走り、周辺は新しい住宅街となりました。かつつてレンゲ摘みをして遊んだことなど偲ぶすべもありません。
平成9年(1997)度現在、約20カ所の新住宅地が誕生しています。自然は豊かで人情もこまやか、長い歴史を育んできた水車のまち・能登川町へようこそ。

【林地先】
【泉台】
【佐生地先】
【佐野】
【空から見た躰光寺】

◆水とともに暮らす Living with the water

◆水とともに暮らす Living with the water(PDF 145KB)

能登川町は水車がシンボルマークになっているほど、水の豊かな町です。
愛知川の伏流水や大同川、瓜生川の水が生活用水となり、田畑を潤し、また地場産業を発達させてきました。

井戸と生活
昭和50年代に上水道が完備されるまで、一部の地域を除いては、ほとんどの家で井戸水が生活用水の中心となっていました。昭和30年(1955)の初め頃までは、つるべ井戸やガチャコンポンプが使われていましたが、後半になると電動ポンプが普及しました。
小川、躰光寺、垣見地区は掘るだけで良質の水が湧き出ます。伊庭や乙女浜は金気があり、須田、安楽寺や長勝寺の一部では掘っても水が出ないので山からの「たり水」を溜めて使っていました。同じ能登川でも、水脈によってこんなに違うものかと驚きます。
夏は冷たく、冬温かい井戸水は、いまもなお飲料水や風呂、植木や畑の水やりなど、さまざまに使われています。

【山からの「たり水」が流れ込む安楽寺の川】
【上水揚水地点(長命寺沖の取水口)】
【黒金気井戸(新宮西)】
【金気井戸(乙女浜)】

◆自噴井戸

◆自噴井戸(PDF 185KB)

小川の集落を歩くと、どこからともなく水の流れる音が聞こえてきます。
いまもとうとうと湧き続ける小川の水は「鈴鹿山系の湧水」としてペットボトルに入れて市販されています。垣見ではハリヨが生息し、きれいな水にしかはえない梅花藻も見られます。
他の地区でも昔はたくさんの水が出ましたが、工場ができてからは水量がぐっと減りました。工場の休みの日は水がよく出るそうです。
また、躰光寺の「沢の薮」や垣見の「虚無僧池」、今地先の「チリンさんの森」ではいまも湧き水が少しずつ出ています。

【小川の八宮赤山神社の前にこんこんと湧き出る水】
【「鈴鹿山系の湧水」と神郷の清酒「能登川水車」】
【梅花藻のはえる躰光寺川】
【いまも少しずつ湧き水が出る躰光寺の「沢の薮」(左)と今地先の「チリンさんの森」】

◆農業用水

◆農業用水(PDF 147KB)

昔、田植えの頃には、田んぼの水は近くの川や溜め池、または琵琶湖から引いていました。何時間もかけて蛇車で川から水を入れたり、渇水になると川上と川下で水争いがあり、夜も寝ずに水の番をしたり、その苦労は農地改良をされて田んぼのバルブのコックをひねるだけの現在では、想像もつかないほど苛酷なものでした。
排水はいまも昔も琵琶湖に流れていますが、この排水に含まれる農薬や化学肥料が環境破壊として問題となっています。

【川から田んぼへ水を入れる蛇車】
【栗見新田にある承水湖の水位を調節する近代的な水門】
【種地先にある野田池 昭和初期に造られ、10馬力のポンプはいまも現役です。】
【川の流出水量を調節する面戸(めんど)(福堂)】

◆川との生活

◆川との生活(PDF 173KB)

炊事、洗濯、野菜洗い

昔は、茶碗や野菜の粗洗い、洗濯のすすぎに川を利用していました。しかし上下の区別がはっきりしていましたので、汚水は畑や便所に流し、川ではすすぎ洗いだけをしました。「川には水神様が住んでおられる」と川を大切にしてきたのです。
ところが、洗濯機と合成洗剤が普及するにつれ、その意識もだんだん薄れ、生活雑排水は川に流すようになってしまいました。このように便利になった結果、川は富栄養化し、藻が繁殖しヘドロが溜り魚がいなくなってしまったのです。
いま私たち一人ひとりが身近な問題として考えていきたいものです。

【美しい伊庭の川】
【毎月1日と15日に榊が供えてある長勝寺の川】
【ゴミが溜った大同川】
【川の玄関―カワトのダンダン】
【子どもが遊ぶ伊庭の川】

◆水環境カルテ

◆水環境カルテ(PDF 86.1KB)

生活の中の水と人とのかかわりは、水道が入ってからおおきく変わりました。琵琶湖周辺におおきな変化が訪れたのは、昭和30年代のことでした。
少し年配の人たちには、井戸や川水、湖水などを生活に使った経験がありますが、それを記録として残す作業は、ほとんど行われていません。
琵琶湖博物館では平成4年(1992)から7年にかけて滋賀県内50市町村の集落ごとにこれらの調査をしました。(『湖人』同朋社より)
能登川町の調査は、ふるさと再発見レッツの会が担当しました。その一部を紹介します。また、このほかの地区に関しては、琵琶湖博物館および能登川町総合文化情報センターで見ることができます。

●Karte 1 カルテ1
「伊庭の交通機関は田舟」
水郷の地伊庭は、その昔、交通機関がほとんど田舟でした。舟が通りやすいように川幅も広く、曲がりやすいように川の勾配もなだらかに、くねっていました。駐車場ならぬ駐舟場が何カ所もあったそうです。
荷物の運搬はもとより、有名な「伊庭祭り」の中の「卯の時祭り」では丸子舟に重い神輿を乗せてお渡りをしたそうです。しかし昭和50年以降の改修工事で車が通りやすいように川幅が狭まり、舟の玄関口のカワトも徐々に姿を消していきました。川に生える藻も、昔とは種類も異なり、生きる魚も、メダカとザリガニになってしまっています。(『水環境カルテレポート』より)

●Karte 2 カルテ2
「長寿の秘訣は裏山の水─安楽寺」
山から流れ出る水をため、その水ですべてを賄ってきたと言う山本さんの家は、安楽寺でも裏がすぐ山というところ。ポンプを打ち込んでも水は出ず渇水期の7月末から8月にかけては200m程離れた畑の中の溜水(これは年中枯れなかった)まで水桶を担いで汲みに行くのが仕事だったという。「戦前にその水が魅力で、先代が畑を買わはったんですわ。道を隔てた下の家では打ち込んだらカナケやけど水が出たんですけどなあ……。その時期になると、よその家でも谷の向こうの川の汚い水を汲みに行きましたわ。水が無いのは寂しいもんでなあ、ほんま水には往生しましたわ。20年程前に上水道がきてやれやれでした。でもうちは代々長寿の筋でね。隣やらもそうですけど、これは山水のミネラルのお陰や思うて、毎日ご飯や飲み水は全て山水を使うてます。それ以外は上水やけど昔から思うたら今は極楽ですわ。」と苦労話を語ってくださいました。(『水環境カルテレポート』より)

●Karte 3 カルテ3
「福堂地区の人と水」
田井中さん宅の玄関へ行くには、路肩に車を止め、家の縁にそって細い路地を通っていかなくてはならない。つまり、家は道路を背にして建っているのだ。よく見るとここ福堂では、道路に向かって玄関がある家はあまり多くない。
それもそのはずで、いま車が往来している道路は、以前水路だったところを埋め立てたものなのだ。30~40年前の福堂は田舟が行き交う水郷地帯で、幅1mほどの家の前の道路と比べ、裏の水路のほうはこれよりもずっと広く、舟がいまの車の役割を果たしていたのだ。
福堂では昔から、農業用水は琵琶湖からの揚水、生活用水には簡易水道があり、大きな苦労はなかったようだ。簡易水道敷設の契機は伝染病の流行であったらしく、「水路の共有が災いのもと」と考えられたのだ。
一方下水は、農村下水道事業がすでに完了しており、田井中さん宅では上下水道が完備された現代的水環境下で生活されていた。(『水環境カルテレポート』より)

◆話す Patterns of speech

◆話す Patterns of speech(PDF 188KB)

話し言葉は生き物のように時代とともに移り変わっていきます。
若者の言葉とお年寄りの言葉の違いはまさにその典型とも言えるでしょう。
乙女浜の今堀宗三郎さんが「方言の良さを見直し、後世に伝えたい」と、能登川で古くから使われてきた方言800語をまとめられました。※内容の詳細は資料編を参照

【今堀宗三郎さん】

◆今日はホンコさんに行とざるで…
たいていやないなぁ…
タマゴッチ オヤジッチになったんよ
プリクラしたぁムッチャ カワイイデェ

◆子どもの生活 Children’s Life

◆子どもの生活 Children’s Life(PDF 151KB)

子どもの遊びは、遊びに使う用具によって大きく変遷してきました。
ダッコちゃん人形やフラフープなど、その用具が流行することによって遊び方も広まっていきました。
高度情報化時代の現在、めまぐるしい遊び道具の開発によって振り回されている子どもに古き良き遊びを伝承していきませんか。

昔の遊び

●川や水路で魚つかみ
昔から、砂があれば砂遊びをしたり、川があれば泳いだり魚をつかんだり、その地域の環境に合わせて遊びました。能登川町は川や水路が多いため、魚を釣ったりつかんだりして遊び、またこれが日常の食料ともなるので実益を伴った楽しさの大きな遊びだったようです。もちろん、道具は手作りで篠竹を切って木綿糸をつけ、針をつけてそこらでとったミミズをつければできあがりという、簡単な仕掛けながら、フナを釣ることができました。ヤスを作って魚を突いたり、囲いを作って水をかい出し、みんなで手づかみしたりといろいろな方法を考えながら、日々川の中を覗いていたことでしょう。

●貝釣りや蛙釣り
川や池では貝釣りや蛙釣り、エビガニ釣り(ザリガニ釣り)もできました。貝釣りの標的はカラス貝で、篠竹や葭の先を泥の中で穴をあけているところにそっと突っ込むと、貝が驚いて口を閉じそのまま引き上げてつかみます。エビガニも、はさみで挟んだところを釣り上げます。蛙も針ではなくオオバコの葉などを使い釣っていたそうです。麦の茎をストローがわりにして蛙のお尻から息を吹き込み、おなかをふくらませて泳がせたという、ちょっと残酷なようですがこんな遊びもやっていました。

●路地での遊び
子どもが遊ぶことのできた時代では、路地でも車の往来はほとんどなく、鬼ごっこや陣取り、影踏み、メンコ、竹馬、まりつき、コマ回し、馬とびなどなど多くの遊びが堂々と行われていました。こうした遊びは、子どもにとっての社交の場で、遊びながら他人とつきあっていくためのルールを身につけていくことができました。

【カラフルな模様のコマ】
【羽子板 失敗したら墨で一筆?】
【田舟に乗って水遊び】
【竹馬】
【メンコ(パンエン)】
【糸まり 絹糸がまいてあります。】

●おうみだるま
おうみだるまは、以前全国的に有名な郷土玩具で、佐野の創始者寺井大門(善右衛門)氏が大正年間に製作したのがはじまりです。県内の数少ない郷土玩具の中でも唯一の張子の郷土玩具で、戦後二代目寺井清二氏に引き継がれましたが、残念ながら現在は製作されていません。
一説によると、大津絵も伏見人形の影響を受けていると言われており、また、おうみだるまの中でも男達磨の画風は大津絵と共通するおもしろさがあります。
おうみだるまは3種類あり、漫画風な感じのする男達磨と、上品なほほえみを浮かべた女達磨(おたふく)、小さくてかわいい姫達磨で、それぞれ特徴があります。

●力強い遊び
馬跳び(高馬、赤馬など呼び方はいろいろあるようです)や相撲など体力を要する遊びは、男の子が好んで行い、遊ぶことによって体が自然に鍛えられていきました。
チャンバラや兵隊ごっこなどが、いろいろな場で行われ、ちょっとした木の枝や竹があれば、刀に見立てて遊んでいました。

●家の中での遊び
家の中では、おはじきやビー玉、カロム、あやとり、カルタ、すごろくなどの遊びができました。
また、「○○ごっこ」が家の内外問わず行われていました。おはじきはビリヤードのようにテーブルの上から当てて下に落として遊んだりしました。大人のように将棋や囲碁などもして、おじいさんたちと対局するのも楽しみだったようです。
雨の日には外で遊ぶための準備として、いろいろな物を作り上げていました。とくに、凧や竹トンボ、模型飛行機などは、作ることが楽しみでした。
凧をあげて遊んだり竹トンボを飛ばして遊んだり模型飛行機や模型の船で遊んだりするのは、基本的には一人でする遊びです。でも、一人でするよりも多くの友達と競ったり、教えあったり、場合によっては見せびらかしたりするのが楽しみで、一人でするより大勢で遊んでいました。
昔でも、ブリキのおもちゃやセルロイドの人形など、いろんな種類のおもちゃを買ってもらっていました。

【おうみだるま】
【十手 捕り物ごっこに使いました。】
【百人一首】
【水鉄砲など 杉玉や山吹の実も使いました。】
【カロム 湖東地方固有の遊びです。】
【模型飛行機】

◆現在の遊び

◆現在の遊び(PDF 158KB)

●テレビゲームがしたい
いまの子どもたちは、どうやって遊んでいるのでしょう。いまの子どもたちは、これまでのような屋外中心の遊び方ではありません。身近に安全に遊べる場所が無くなり、楽しく遊べる自然や動植物が失われたために、家の中で遊ぶ子どもが増えています。
現在の遊びの代表は、テレビゲームです。テレビゲームは当初は高価な物でしたが、安価な家庭ゲーム機が登場すると、一気に普及しました。
敵を打ち落とすものや格闘するものなど、どんどんソフトの種類も増え、小学校の高学年ともなると、すべての子がテレビゲームで遊んだ経験をもっています。学校での話題が、新しいソフトのことや、攻略法についてになってしまうほどです。
テレビゲームのソフトを販売したり、中古ソフトを扱う店もでき、コンビニエンスストアでも予約ができるなど、町内でも浸透しています。
ごっこ遊びでやっていたことがゲームの世界でできるのは魅力ですが、心の成長はどうかと、とても心配している親も少なくないようです。

●ボールゲーム
「現在の子どもが完全にゲームっ子になってしまった」ということはありません。学校で学習する体育の内容からドッジボールは、日常的にボールさえあれば遊べる、手頃なボールゲームです。スーパードッジやロックンなどルールをいろいろと変えながら楽しみます。
物と場所さえあれば、いろんな遊び方を考え出すのは、いまも昔も変わりませんね。
また、サッカーをして遊ぶ子も多くなりました。いまの子どもたちにとってボールゲームは、遊びの基本です。

●伝承される遊び
なわとびやゴムとび、トランプや百人一首、竹馬、将棋、囲碁、コマ回し、凧あげなど形態や道具は変化してきても、いまでも遊んでいるものがあります。
多くは学校でまったく同じではなくても、日本の文化にふれるものとして、取り組んでいます。
しかし、手作りの良さなどは伝えにくく家庭や地域で伝承してあげてほしいものです。
子どもの集まるところでは、遊びや地域の文化が伝承されていきます。多くの寺院で行われている日曜学校は、楽しく仏教を教えてもらうとともに、地域の文化を伝えるのに最適で、いままで子どもの精神的な成長をも支えてきました。

テレビゲーム最大手の任天堂は、スーパーファミコンからNINTENDO64を発売。SONYのプレイステーション、SEGAのSEGAサターンをまじえ、販売競争が激しく、パソコンにもソフトが移植されています。
【ロックンをして遊ぶ子どもたち】
【凧あげ大会(東小・消防学校にて)】
【百人一首大会(南小)】

◆スポーツ少年団

●スポーツ少年団の誕生
現在の子どもにとって、スポーツとのふれ合いは遊びの一部と考えていいようです。一輪車やローラースケート・インラインスケート・スケートボードなどで遊ぶ子どもが多くなりました。
スポーツ少年団はスポーツを通して健全な青少年を育成するため、昭和56年(1981)各学区に結成されました。
当初は男子は野球、女子はバレーボールというのが中心でしたが、近年はミニバスケットボールやサッカーが加わってきました。
能登川町の大会として、春夏秋の3回の大会が開かれています。ブロック大会や練習試合などを含めると、1年を通して、活動をするようになりました。

●各スポーツ少年団の構成(平成8年度)
[能登川東スポーツ少年団]
能登川東スポーツ少年団は、野球・サッカー・ミニバスケットボール・バレーボールの4部で男子125名、女子59名、指導者21名が所属しています。
サッカー部は全国大会に出場しました。

[能登川西スポーツ少年団]
能登川西小学区のスポーツ少年団では、野球25名、指導者3名、ミニバスケットボール23名、指導者2名、バレーボール27名、指導者4名と中学生複合45名、指導者3名が活動しています。

[能登川南スポーツ少年団]
能登川南スポーツ少年団は、野球、サッカー、バレーボール、バトンの4部があります。男子75名、女子45名と指導者24名で構成されています。
バトン部は、町民運動会などでのアトラクションに出るなど、独特の活動をしています。

[能登川北スポーツ少年団]
能登川北スポーツ少年団は、野球とバレーボールの2部があります。
男子28名、女子24名、指導者8名で構成されています。
人数は少なくても、学区の児童数に対する構成比率はとても高く、多くの子どもたちが入部していると言えます。

[柔道・剣道・空手]
その他に、柔道スポーツ少年団12名、指導者5名、剣道スポーツ少年団25名、指導者4名、空手スポーツ少年団18名、指導者3名が結成されています。

町スポーツ少年団夏季大会開会式行進の先頭は能登川南小バトン部。
町スポーツ少年団秋季大会女子バレーボールの試合。
スポーツ少年団レクリエーション大会輪投げやドッジボールをして交流します。

◆出会いを通じて Community Activities

◆出会いを通じて Community Activities(PDF 260KB)

町内には、明るく住みよい地域づくりの一助を担う数多くの団体やグループがあります。
趣味の活動をとおして、より人間らしく、より心豊かに、またスポーツを通じて心身を鍛えています。
それぞれが出会いによって新しい自分を見つけ、ふれあいの場でいきいきと輝いています。

能登川町地域連合婦人会
出会いから生まれるネットワークづくり

能登川町地域連合婦人会は昭和24年(1949)5月10日に発足しました。
「地域に根ざした活動を通して、地域のつながり、ネットワークを大切にする」「生涯学習の観点から常に学ぶ姿勢を忘れず、自発的に学習活動に参加する」「共に活動する喜びを実感し、明るく住みよい地域づくりを目指す」など、地域婦人会の役割を平成8年(1996)度の会長はこう話しています。
また何よりも“出会い”を最大のメリットとして、人と人との出会い、多くの体験との出会い、活動に参加する度に得られるホットなニュースとの出会いなど、25支部、1400人余の会員のますますの地域活動が期待されます。

能登川町青年団
地域づくりの一翼を担う

昭和26年(1951)8月に町青年連絡協議会として発足し、翌年1月15日に青年団結成式が行われて以来46年の歴史をもっています。結成当時は約1000人の団員が地域づくりに躍進しました。
現在団員の数こそ少なくなりましたが、青年団の精神は変わることなく引き継がれ、いま、その存在があらためて見直され、重要視されています。
10年ほど前は町青年団の加盟支部(町内にある集落を単位とした)を中心に町青年団の事業とは別に盆踊りや敬老会、キャンプ、地域内の清掃活動を展開してきましたが、支部の減少とともに、近年は町全体で仲間を集め事業部、文化・体育部、広報部の3本柱で各種事業をとおして自らを高めあう組織運営に変わってきました。
なかでも能登川の夏の風物詩として定着してきた青年団主催のドラゴンカヌー・ヤング・フェスティバルは、すでに5回を数え、県内外を問わず、ときには海外青年までもが参加する大きな大会(参加数90チーム、1000人余)となって、その運営を契機に仲間づくりの和を広げています。

【親善レクリエーション大会(平成8年6月15日)】
【地域づくりを考えるつどい(平成8年11月17日)】
【地域連合婦人会(支部名)】
【旧南小学校講堂で行われた県青年大会文化の部の模様(昭和45年)】
【第5回ドラゴンカヌー・ヤング・フェスティバル(平成9年7月13日)】

◆能登川町老人クラブ連合会
健康で明るく楽しい生きがいを

能登川町老人クラブ連合会(老ク連)は、昭和35年(1960)7月1日に国民年金制度の発足を記念して、町内70歳以上を対象者に「能登川町長寿会」を結成したことから今日を迎えています。
現在の老ク連は各字の長寿会支部が法的にも独立したクラブとして活動されるようになったことと、長寿会結成15年目の総会(昭和49年4月1日)を契機に各老人クラブが集まって活動の充実を図ることをねらいに名称も改められました。
現在36単位クラブ、3000人余の会員が年間をとおして活気あふれる活動を展開しています。

能登川町子ども会
指導者連絡協議会
地域が支える健全育成

能登川町子ども会指導者連絡協議会(町子連)は、子どもたちがすこやかに成長する願いを地域ぐるみで考え、見守る「地域子ども会」の関係者が集まり、町内単位子ども会の育成、指導、連絡調整などの中心的役割をはたすことを目的に、昭和47年(1972)9月26日に発足しました。
平成9年(1997)度現在、町内24地区1000人を数える町子連は、平成3年2月に全国子ども会中央会議の席上、永年の活動成果に対して全国表彰(指導者・育成組織の部門)を受賞し、今後本会のいっそうの発展とますますの活躍が期待されています。

【長寿会創立総会の模様(昭和35年)】
【老人クラブ連合会(単位クラブ名)】
【インリーダー研修会(平成9年5月18日)】
【能登川町地区子ども会結成の集い(昭和45年11月8日)】
【子ども会指導者連絡協議会(単位子ども会名)】

◆能登川町文化協会
生涯学習社会をリードする

能登川町文化協会は、昭和54年(1979)6月10日に発足しました。発足当時32団体であったサークル数も70団体に達し、会員数は現在1300人をこえる大所帯となりました。
「文化活動を振興して、町民の心身の健全な育成に努め、明るく豊かな町民生活の創造」を目的に、各サークルが生涯学習社会の必要性を強く叫ばれるなか、各人の自発的な意志にもとづき活発に活動しています。

能登川町体育協会加盟競技団体
さわやかな汗に運動不足解消

町民スポーツセンターややわらぎの郷公園を拠点にさまざまな競技団体が、スポーツ活動に取り組んでいます。参加者は自分の体力づくりもさることながら、活動を通じてのコミュニケーションでよりいっそう充実した時を過ごしています。

体育協会加盟団体
神崎弓道連盟/卓球連盟/ゲートボール連盟/軟式野球連盟/グランドゴルフ協会/バレーボール協会/ソフトボール協会/柔道クラブ/ソフトテニスクラブ/硬式テニスクラブ/バドミントン協会/陸上クラブ/バスケットボールクラブ

【能登川町文化祭での展示品(平成8年11月4日)】
【公民館まつり・ダンスパーティーの夕べ(平成9年5月31日)】
【公民館まつり・能登川囲碁クラブ(平成9年6月1日)】
【公民館まつり・能登川コールシャンテ(平成9年6月1日)】
【グランドゴルフ大会(平成9年5月25日)】
【バドミントン協会の練習風景】
【バレーボール協会の練習風景】
【ソフトボール協会主催夏季大会(平成9年7月6日)】

◆伝える Traditions

◆伝える Traditions(PDF 236KB)

この町にも昔ながらの風習や言い伝えというものがたくさんあります。
それらは、時代とともに変化し消え去るものもありますが、ここにその一部を紹介し、先人たちがいまに伝える「生きざま」を垣間見たいと思います。

門松と慣習

●大字今伝統の門松と若衆制度
[門松]
古くより新年を迎える飾りとして、年末になると門松やしめなわを家の門口などに飾る風習があります。
宮世話と呼ばれる若者たちが本殿前ほか数か所に鳥居のような形をした大きな門松を立てる慣習が昔から伝えられています。
しかし、この門松がどうしてこのような形をしているのか詳しくはわかりません。

[初詣]
平成9年(1997)の元旦も、この門松で新年を迎え神社に参拝し初詣をすませた村の人たちは、社務所前で宮世話さんと年賀の挨拶を行うことが慣習となっています。
以前は社務所前にもこのような門松が立てられていたのですが、現在はここには立てられなくなりました。

[元服式と若衆]
毎年1月14日(現在は15日)になると、社務所で元服式という行事が行われます。子どもたちは元服を迎えるまで半役として1年間神社で下積みを終えないと元服させてもらえず、元服して1年後にようやく若衆入りを許されるのです。
昔は、大変厳しく親に文句を言えても、この神社で文句を言う人は誰もいなかったようです。
平成9年の元服式には、該当する子どもがいませんでした。

[左義長]
社務所で若衆の行事が一通り終わると、今度は鳥居の前で左義長と呼ばれるこの日最後の行事が行われます。これは、正月用のお飾りや古いお札を、門松で作った櫓で燃やす行事です。本殿のご神灯で授かった種火で点火すると、燃え盛る櫓はその年の「鬼門」の方向へと崩れ落ちます。燃えさしの袴と呼ばれる青竹で作られた部分は、鳥居の袂に集め置きます。翌朝、氏子たちがそれらを持ち帰り、小豆粥を炊く火の中へ入れて燃やすのです。

【今天満神社の門松】
【初 詣】
【元服を終え若衆入りする子どもたち】
【左義長】

◆年占い

●白鳥神社(種)の小豆占い
この神事は年の初めに五穀豊穣を祈願するとともに、しのべ竹の筒の中に入った小豆粥の状態によってその年の作物の作柄を占うという行事です。
村民より選ばれた宮世話と呼ばれる人たちが、1月15日朝7時、宮司を先頭に本殿で奉告祭を行い、祭事が終わると、拝殿前で粥を炊き、その中に両端を斜めに切ったしのべ竹7本を入れ炊きあげます。
炊きあがった小豆粥は、かまのまま社務所に運ばれ、7本の竹筒を取り出し、中が見えるようにその筒を剥ぎ、評定衆に判定を求めます。
判定が決まると御管の表に、上・中・下の印を押し、社務所に1年間掲げられます。

●大日堂 大念仏
神郷の斗では、この村の子どもたち(小学6年生まで)を大日堂に集めて、毎年2月と10月に大念仏という行事を行っています。お参りの後、世話方さんの宿と呼ばれる家でお膳を並べて食事をします。主役である子どもたちは膳を持ち寄り、塗りのお椀で、おひら・いも・こぶ・ふきなどの煮物を食べます。最近は揚げものやバナナなどとメニューも変わり、器もプラスチック製となりました。宗教的な意味あいはあまり感じられません。年齢をこえた子どもたちのコミュニケーションの場となっています。

小豆占い
宿(世話方の家)で食事をする子どもたち

◆魔除け

●勧縄吊
「勧請縄吊」「勧請吊」「神縄吊」などとも言い、町内では、長勝寺・伊庭仁王堂・伊庭高木観音・能登川毘沙門堂の4カ所で行われています。
勧縄は、村の入り口・村境・境内入り口などに道を横切って吊され、そのことにより悪霊・厄神の侵入を防ぎ、さらに秋に豊作を祈る意味あいが込められています。
勧縄はそれぞれの座や講に属する講中の人々で作られます。
仁王堂在地で作られる勧縄について概要を述べてみますと、以下の通りです。
1月8日の朝から(いまはその前後の日曜が多い)餅藁(餅米のわら)を10~12束ぐらいを持ち寄り、横渡しの大縄・小縄や竹の輪などを昼頃までかかって作ります。その後、それを図のように組み立てて、道を横切って高く吊します。

【高木観音の勧縄吊】
【仁王堂の勧縄吊】
【長勝寺の勧縄吊】

◆巡礼六地蔵

◆巡礼六地蔵(PDF 126KB)

六地蔵御詠歌に歌われているお地蔵さまが、能登川町内に5カ所あります。
六地蔵信仰になぞらえて、6カ所を指定して巡礼するのにちょうどよいコースとなっています。

壱 今村興福寺地蔵堂
苦しみに変わる仏の誓いとて 楽しみ安き法の庭かな 地獄能化

昔、金九郎じいさんが、眼の病気にかかり長い間、八方手をつくして治療をしましたが、ぜんぜんよくならず途方にくれていました。ところが、ある夜、一人の老人が夢枕にたたれお告げがありました。おじいさんは、このお地蔵さまをていねいにおまつりしました。不思議なことにおじいさんの頑固な眼の病気は、たちまちに治りました。その後、この話は村中に伝わりみんなでお堂を建てて、お守りすることになりました。

弐 長勝寺村長勝寺
長き夜の闇なき照らせこの寺の 光すぐるる秋の夜の月 餓鬼能化

閻魔大王は、赤い服をまとい王冠をかぶり、大法杖をにぎって怖い形相をし、冥界の王として死後の審判を司り、また人間が悪事をするときなどに厳しく見張って怖がらせる、お目付け役です。
昔から長勝寺のお地蔵さまは、閻魔天としてまつられ、お詣りすると、長寿・安楽往生がかなえられ、厄除けができるという信仰があります。

参 下日吉村正瑞寺
六つの輪の杖をたよりに詣で来て 道も日吉のみ寺すずしき 畜生能化

この寺は臨済宗妙心寺派に属し、五個荘町下日吉にあります。この寺後には後藤但馬守の居城である佐生城があり、観音寺城に通じる間道が通っています。また、この山中には金の鶏が埋まっているという伝説があり、以前はこの伝説を信じて穴を掘った人がありましたが、鶏は出てこないで、石仏が1個出たということです。
またこの寺には、修業の場であった「養命の瀧」があり、現在は墓参の水汲み場として使われています。

今村興福寺金九郎地蔵堂
長勝寺長勝禅寺の閻魔堂
下日吉村正瑞寺

四 佐野村地福寺
貧しきもたのみつくせぬ地福寺の 仏の恵み隔てなき世に 修羅能化

地福寺の本尊は木造のお地蔵さまで、鎌倉時代末期に京都の白川より当寺にお移りになりました。織田信長の兵火で寺が焼失しましたが、本尊は無事に残り現在まで伝えられています。
また、昔地獄に落ちた女の人を、僧の姿に身を変えて救ってくださった言い伝えのあるお地蔵さまです。

五 能登川村大徳寺
能登川に入りかう船は後の世の 室津へ渡るこの寺の庭 人間能化

このお地蔵さまの台座には、「宝永二年五月良辰」の銘があり、建立記録として残っています。昔、この寺の目の前に港があった頃、港に出たり入ったりする人々の姿があの世と似ていることから、橋渡しをしてくれるお地蔵さまとしてまつられました。
また現在では、自由にお参りできることから、地域の人たちからは、親しみのある信仰の場となっています。

六 躰光寺村地蔵堂
法の輪の光をうけて瓔珞の かかる身を得ん末ぞたのもし 天上能化

このお地蔵さまは、大木を3つに切り、三体のお地蔵さまが刻まれたときの真ん中の部分で、先端と根本の部分はよそに持っていかれ、ここには真ん中のお地蔵さまがまつられているということです。
このお地蔵さまは彩色が施されてあります。
また、安産や母乳を授けたり、預かったりするお地蔵さまとして、霊験あらたかと言われています。

【佐野地福寺】
【能登川大徳寺地蔵堂】
【躰光寺国領地蔵堂】

◆春祭り

◆春祭り(PDF 233KB)

寒い冬が終わり春になると、町内各地で楽しい祭りが催されます。
子どもから老人までが、にぎやかな太鼓や鐘の音に気持ちがはずみますが、現在では、若者の人数が減ってきたため、祭りをいつまで続けられるか心配になっている地区もあります。

●山路の「ふき出し」
昔は、この山路の近くまで湖がありました。明治の初め頃、かみなり勇三という石工がおり、高島郡の石切り場で働いているときに火薬の扱い方をおぼえ、山路へ渡ってきて、手筒花火を作ったものが現在まで伝承されたものだと言われています。
宵宮の夜、若衆が竹筒に火薬をつめて作った「ふき出し」に火をつけると、シューシューという音とともに火が吹き出します。若衆はそれを手に持ち境内で振り回すと、あたりは一面の炎につつまれ火の祭典となります。
暗闇の中で「ふき出し」を持つ若衆が、火傷をしないかと心配をさせますが、「ふき出し」がきれいに円を描くと、炎と一体となった若衆の勇ましさに魅了されます。

●川原祭り
この祭りは、川南、阿弥陀堂、福堂、乙女浜、新宮西・東の各字が行う祭りです。福堂、乙女浜、新宮西・東は3年に1度の担番制になっています。
以前は、この他に彦根市側の田附・新海・本庄・三ツ谷などが参加して行われていましたが、現在は別々に行われています。
平成9年(1997)の神輿の担番は、乙女浜でした。朝9時から区内を練り歩き、11時15分には神輿の置かれている阿弥陀堂を出発、堤防を降りて走り込みが行われます。その後、堤防をくだり栗見大宮神社に向かい、2度目の走り込みが行われます。この走り込みは、大きな神輿を祭の衣装で整えた大勢の若衆たちが勢いよく突進していくところが、砂煙が舞い上がり力強さを感じさせられます。

●伊庭の坂下し
坂下しは、神輿を担いで渡る祭りではなく、繖山の頂上から神輿を引きずり降ろす勇壮な祭りです。
坂下しの道は、堅い岩が露呈している激しい急な坂道で、途中いくつかの難所があります。標高差は170メートル、本殿より鳥居までの距離は約500メートルあり、歩いて降りるにも大変な険しい山道です。ですから、最初から最後まで気をゆるめることのできない祭りです。
坂下しの起源はいつ頃なのか、正確な記録は残されていませんが、大津坂本の日吉大社の祭りを写したと伝えられています。

や~とこせぇ~ えぇ~よぉ~いやぁな~
あれわいさぁ~ これわいさぁ~
そぉりゃ~よぉいぃとぉせ~

【山路の「ふき出し」】
【川原祭り】
【伊庭の坂下し】

◆花まつり

花まつりは、4月8日のお釈迦様の誕生を祝う仏事です。お釈迦様誕生のとき、竜が天からやってきて香湯をそそいだという話にもとづくもので、産湯にあたるとされています。
各お寺では、いろいろな草花で飾った花御堂を作り、中に灌仏桶を置いて甘茶をいれます。その中央に誕生仏を安置し、ひしゃくで甘茶をかけます。参拝者には甘茶がふるまわれ、甘茶で習字をすると上達するとか、害虫よけのまじないを作ったりします。

涅槃会

旧暦2月15日の釈迦入滅の日に、釈迦の遺徳をしのんでつとめられる法会。この地方では3月15日頃につとめられています。
涅槃とはサンスクリットのニルバーナの音訳で、迷いのなくなった境地を言います。この法会には、クシナガラの沙羅双樹のもとに横たわった釈迦を弟子たちや多くの動物がとり囲んで泣いている図柄の涅槃図を本尊として掲げます。
佐野の善勝寺、伊庭の妙楽寺には町指定文化財の涅槃図があります。(「わが町の文化財」参照)

ぼんなり

かつて、近江の広域にわたって行われていた「ぼんなり」が、いま伝承されているのは一部のところとなっています。
これは、「坊さん成り」の意味であり、世間をのがれ俗事との関わりを絶つことと言えます。しかし、完全な世捨人になるのではなく、儀式を受けた後も形の上ではいままでと変わらない暮らしをおくります。
ぼんなりをされた人は、仏法一筋に生きる決意をし、村の人たちの規範となり尊敬される生き方をされています。

系図詣

系図詣は伊庭妙楽寺を中心に行われている仏教行事です。
日時は8月11・12日の両日、早朝より行われます。門徒は各家に伝来している巻物の絵系図をもって参詣します。分家・新家などで系図のない場合は、本家と一緒に参詣します。よそへ嫁したり、都会に出ていても、盆よりも系図詣に帰省し、参詣する場合が多いようです。
一族がそろって参詣する場合には、まず旧本坊の妙楽寺へ参詣し、系図を内陣と外陣との間に置かれた系図台の上に繰り広げ、読経中に焼香します。
終われば系図を巻き納めて退出し、次いで各自の手次ぎの寺へ参詣し、同様に系図を広げ、読経中に焼香します。
参詣した人は「さる豆」をいただいて帰ります。「さる豆」はサヤエンドウの一種を塩ゆでにしたものです。なぜこの豆を使用するのかは不明ですが、「さる」に「去る」の意が掛けられていると思われます。

【甘茶をかける子ども】
【仏前にならぶ「ぼんなり」の人々】

◆盆踊り

「よいとよーいやまか、どっこいさのせー」の掛け声にあわせた江州音頭は能登川における夏の風物詩の一つで、以前は駅前広場や南小学校の校庭などでも盛大に開催されていました。単純な振り付けは老若男女に受け入れられやすく、各地で催されていますが、昔ほどの人気はないようです。
平成8年(1996)8月3日には第24回中部地域びわ湖まつり「水車のまち能登川夏の祭典」が当町で開催され、近隣の市町から3800人もの人々が集まり、大きな盆踊りの輪ができました。
また、当町には江州音頭を後世に永く継承保存することを目的とした「能登川町正調江州音頭保存会」があります。180名の会員が音頭教室・踊り方教室などを通じて活躍されています。

地蔵盆

これはふつう毎年8月24日に、各町内にある地蔵堂で行われる行事で、子どもたちに関係の深いものです。永祚元年(989)「地蔵観音像霊験記」による24日を地蔵の日とするという信仰からきた行事ですが、町内会のイベントとして扱われている地区も多く、金魚すくいやスイカ割、ビンゴゲームなどをして楽しんでいるところもあります。

【「水車のまち能登川夏の祭典」(平成8年8月3日)】
【字の盆踊り(今)】
【本町1丁目の地蔵盆】
【種の地蔵盆】
【栄町4丁目の地蔵盆】

◆人の一生

◆人の一生(PDF 127KB)

帯祝い・安産祈願・お七夜・宮参り・七五三・入学・成人式・嫁入り・厄年・還暦・葬式・初七日・忌明(きめい・きあけ・ひあけ)・一周忌など、われわれがこの世に生を受けて死を迎えるまで、さまざまな儀式が執り行われます。
これら通過儀式と呼ばれるものは、人生上の重要な時期に挙行される宗教的なものですが、その人がそのときどのような社会的集団に所属するかという、節目となる儀式でもあるのです。
これらの儀式は、時代と地域によりその方法は大きく異なります。能登川町においてもそれには差異が見られます。とくに昭和40年(1965)以降開発された新しい住宅地では、「村」の行事を取り仕切る「長老」の存在がなく、それぞれの出身地における風習が優先して採用されたり、風化消滅しているものもあるようです。

【宮参り】
【入学】
【成人】
【結婚】
【還暦】
【葬送】

◆習俗のいろいろ

●さんだわら
「はしか」「ほうそう」は、昔はほとんどの人が幼児のときに経験する病気でした。以前は、米俵のふたに御幣を立ておにぎりを供えている「はしか」「ほうそう」の神送りの「さんだわら」を村はずれの橋のたもとなどでよく見かけました。
しかし現在では、予防接種で防いでいるため、この「さんだわら」をまったく見かけなくなりました。

はしかの場合
白の御幣を1本と2本の笹のお湯払を作って、白米で黒ごまのおにぎりを1個作ります。
ほうそうの場合
赤い御幣を1本と2本の笹のお湯払を作って手元に赤紙を巻き、赤飯のおにぎりを1個作ります。

●歯が抜けたとき
上の歯が抜けたときには、便所の雨だれ落の穴に入れます。下の歯が抜けたときには、便所の屋根にほうりあげます。

●めいぼ
めいぼのときには、小豆を親井戸の中に入れて「なおれ なおれ」とお願いします。現在では、このようなことをしている人はいないでしょうね。
それよりも、まずお医者さまにいくことが大切ですね。

【さんだわら】

がおうがくるぞ がおうはこわいぞ!
「がおうがくるぞ がおうはこわいぞ」―能登川町内では、小さい子どもたちが親の言うことを聞かないときに叱ったり、なだめたりするためによく使われる言葉です。
しかし、このがおうは、どのような姿・形をしているのでしょうか?
昔、織田信長が天下統一のため京都へ兵を率いて、この地を通行しようとしたときのことです。そのとき領主佐々木氏は、重臣会議の結果、通行することまかりならぬと沙汰を出したので、信長は通行することができませんでした。
しかし、重臣会議の席上ただ一人種村氏だけが、信長を通行させてもよいと強く主張したため、主君の怒りをかい、種村氏は主君から攻められそうになりました。主君の命を受け蒲生氏郷は種村氏を攻めようとしました。
種村氏の領地の人々は蒲生氏が攻めてくるのを大変恐れました。種村氏は、自分の領民や領地が戦禍に会うのをみるにしのびず、主君に詫びを入れ、どうにか助かりました。
それ以来、「蒲生がくるぞ」「蒲生はこわい」と言う言葉が、いつしか「がもう」が「がおう」に変わり、いまでも使われています。(『能登川のむかし話』より)

◆無手間 Volunteering

◆無手間 Volunteering(PDF 319KB)

「無手間」それは地域の人々が行う共同作業。
以前はどこででも見られたこの行為。現在ではその名を変え、ボランティア活動としてその精神をいまに伝えています。

●琵琶湖清掃作業
あの素晴らしい風景をもう一度

琵琶湖の東岸に位置する能登川町。湖面に接する距離は約2キロメートルとわずかですが、夏はヨットや水上バイクといったマリンスポーツ、冬には絶好のカメラスポットとして大変なにぎわいを見せ、休日などに訪れる人は年間数万人にものぼると言われています。
しかしそのためでしょうか、年々、琵琶湖周辺にゴミが目立ちはじめ、その美しい風景も随分変化してしまったようです。
能登川町ではこのような現状を前に、琵琶湖の清掃作業を行っています。
写真は清掃作業風景を写したものですが、この写真を見てもわかる通り、非常にたくさんのゴミが回収されます。そのため作業に参加した人たちからは「こんなにも汚れていたなんて……」「昔はあんなにきれいだったのに……」と、驚きの声が聞かれました。そして琵琶湖の現状を知り、「これ以上、琵琶湖を汚してはいけない」「もう一度、昔のようなきれいな姿を取り戻そう」と固く決心していました。
多くの魚をはぐくみ、私たちの暮らしに大きな恵みをもたらしてきた母なる湖「琵琶湖」。その姿を1日も早く取り戻し、未来へ引き継いでいくことがいまを生きる私たちに課せられた使命ではないでしょうか。

【「どうしてこんなにゴミがあるのかしら?」】
【集められたゴミの山】
【「昔はこんなのじゃなかったのに…」】
【本当に… もう… イヤになっちゃう!】
【きれいになった琵琶湖畔】

●お宮掃除
浜之神社(乙女浜)の場合

お宮は神様を祀る神聖な場所として、昔から大切にされてきました。また、子どもたちにとっては絶好の遊び場でもあり、幼い頃、楽しい思い出をはぐくまれた方も多いでしょう。
しかし、このように馴染み深く、大切な場所を誰がきれいにしているのかを知っていますか?
実は、氏子と呼ばれる地域の人々がお宮の管理をしており、掃除などの世話もしているのです。
写真は、大字乙女浜の浜之神社の“お宮掃除”の様子ですが、浜之神社ではこのような“お宮掃除”を、春・秋のお祭り前、夏のお彼岸前、そして新年を迎える前といった年の節目ごとに行っています。
この“お宮掃除”。氏子の人たちの話では、ずっと昔から絶えることなく続けられているそうで、天候にも恵まれ、いままで不思議と大雨が降って延期になったことはないと言います。このことについて氏子の人たちは、「きっと神様のご利益に違いない。ありがたいことだ。」と言いながら、掃除に励んでいました。
これからも、大雨などが降ることなく“お宮掃除”を続けていってほしいものです。

【掃除前の浜之神社】
【ぞくぞくと掃除に集まる氏子さんたち】
【一輪車いっぱいに集められた落ち葉】
【集めた落ち葉を燃やします】
【みなさん、ご苦労様でした】

◆子どもの夜回り・火の用心

◆子どもの夜回り・火の用心(PDF 182KB)

火の用心!マッチ1本火事の元

「火の用~心! マッチ1本火事の元」。夕暮時にこだまする子どもたちの元気な声。
みなさんも子どもの頃、近所のお兄さんやお姉さんと一緒に夜回りをした経験はありませんか? ちょっぴり恥ずかしげに、そしてちょっぴり誇らしげに……。
能登川町では昔からこのような子どもたちによる夜回りが各字で行われてきました。しかし、一口に夜回りと言っても、時代によってさまざまな掛け声があります。下の図は、その移り変わりを表したものです。
いま現在、子どもたちが夜回りをしている字はほんの少ししかありません。それは、専業農家であった家が兼業農家へと変わり、字内の共同意識が希薄化してきたからだとか、子どもの数が減少したためだとか言われています。
このままでは、あと数年もしないうちに、“子どもの夜回り”はその姿を消してしまうかもしれません。
けれども、この“子どもの夜回り”を途絶えさせたくはないものです。
なぜなら、“子どもの夜回り”は単なる行事ではなく、子どもたちが大人や社会と接する第一歩なのですから……。

子どもの夜回り・火の用心の『掛け声』移り変わり
米英撃滅火の用心 撃ちてし止まん火の用心
マッチ1本火事の元 戸締まり用心火の用心
タバコの吸い殻火事の元 泥棒の用心願います
カマドの不始末火事の元 ついでに戸締まり気をつけて (戦前~戦中)

火の用心 タバコの吸い殻火事の元
火事や盗難ないように
火の用心 カマドの不始末火事の元 (昭和20年代)

火の用心 マッチ1本火事の元
おイモ焼いても家焼くな (昭和20年代)

火の用心 マッチ1本火事の元
火事は国家の大損害 (昭和50年代)

火の用心 マッチ1本火事の元
サンマ焼いても家焼くな(昭和50年代)

火の用心 タバコの吸い殻火事の元
カマドの不始末火事の元
火の用心 ついでに戸締まり気をつけて
泥棒用心願います
火の用心 僕らの字はいつまでも
火事や盗難ないように
火の用心 (平成)

みなさん、火事には十分ご注意を!
火の用~心! マッチ1本火事の元

◆交通安全教室
手をあげて横断歩道を渡りましょう!!

最近、子どもを巻き込んだ交通事故が急激に増えてきています。そのため、能登川町では交通安全に対する認識を高めることを目的とした“交通安全教室”を年数回、各字で開いています。これらの写真は、平成8年(1996)の“交通安全教室”の1コマです。
この“交通安全教室”。主に子どもを対象として開かれているものですが、その内容は保護者をはじめとする大人に対しても有益なもので、交通事故の悲惨さを伝えるだけでなく交通安全の重要性、大きな事故を未然に防ぐための情報提供、そして、何ものにもかえがたい人命の尊さを伝えるものとなっています。
この教室に参加した親子たちからは、「やっぱり事故はいややなぁ~」とか「恐かった~、事故には気ィつけなあかんなぁ~」といった声が聞かれ、交通ルールを守ることがいかに大切であるかを再認識できたようでした。
この教室で学んだことを忘れずに、交通安全に心がけていきたいものですね。

【スライドによる交通安全指導(桜ケ丘)】
【交通安全○×クイズ(躰光寺)】
【シートベルトって本当にきくの?(躰光寺)】

◆行き交う Transportation

◆行き交う Transportation(PDF 241KB)

人が行き来し、人が交わり、そして物流があることで、まちが栄え、発展していきます。
能登川においても、街道沿いに、また港で、そして駅を中心に物資輸送が頻繁になされ、人々が集まり、人々がにぎわい、さまざまな交流が行われてきました。

湖上交通とともに栄えた能登川

すでに干拓された大中の湖や小中の湖のあった頃、湖辺に接していた集落では、家と川とが一体となっていました。
いまでこそ新しく建て替えられ、見かけることが少なくなった田舟の廃材を使って仕上げられていた家や小屋などの腰板を思い出すだけで、懐かしく感じます。
また集落内の川も車社会と生活の利便から埋め立てられたり、以前の半分以下の幅員になってしまったりと様子が変わってきました。
さて、江戸時代以前より米は、直接領主の米蔵や地頭の蔵に運ぶ以外、湖辺の伊庭港や乙女浜港、福堂港などで集積されて、船で大津に廻送され、蔵元たちによって換金されたそうです。これが「大津廻送米」のいわれです。
当時湖上に活動する船数は、慶長5年(1600)、伊庭・常楽寺に50、乙女浜・福堂には20以上あったと言われています。また、慶安4年(1651)には伊庭に所属する船が173あったと言い、『淡海地誌』によれば文化4年(1807)には伊庭で120を数える船が活躍していたそうです。
さて、明治以前より、湖上交通が盛んなときにあって、大字能登川の現在の愛宕神社あたりに能登川港が栄えていました。
明治に入って、港には「琵琶湖汽船」の前身の「太湖汽船」が活躍し、長浜、八幡、大津方面への物資の集積地となっていました。この頃、港周辺には廻船問屋やはたごが軒を並べ、他郷から能登川へ移住する商人も少なくありませんでした。町内で最初の郵便局(明治3 5年〈1902〉10月開設)ができたのもそのためでしょう。
また、内湖は湖面が比較的穏やかですから、小舟でも行き来ができ、それぞれの水路から小中の湖・大中の湖、そして西の湖を通り八幡堀を通って近江八幡との交易も行い、その頃「八幡通船」という定期船もありました。
時代は移り行くもので、東海道本線が開通した後は、人も施設も駅前へ少しずつ流れていき、さらに内湖の干拓により湖上交通としての役割は静かに幕を閉じていったようです。

乙女浜の水郷風景(年代不詳)
田舟のある山路川(年代不詳)

◆呼称が変わる不思議な道路?!

能登川町を南北に縦断する主要地方道大津・能登川・長浜線。この道路を人によっては「産業道路」とか「浜街道」また「松街道」と言ってみたり、「御所街道」あるいは「朝鮮人街道」とさまざまな呼び方をしていますが、これは、時代の変遷とともに呼び方が変わっていったのです。
まず、県道として未整備だったはるか昔、織田信長が安土城築城をした頃、京都まで古道を結んで幹道としたことにさかのぼります。
琵琶湖岸を走るこの道は、「浜街道」とも「下街道」(中山道より湖辺にあったため)とも呼ばれ、京都への最短距離であるため本街道として発達し、豊臣秀次の八幡城下町建設によってより栄え、関ケ原の戦いに勝った徳川家康がこの道を通って京都に上洛したため天下支配の吉例の道とされたと言われています。
家康が天下をとった後、鎖国時代にあって朝鮮から12回通信使が来日。
そのうち10回を江戸に向かう道中、京都から近江に入り中山道を経て途中、野洲小篠原より彦根鳥居本までこの道を通ったそうです。
中山道を途中脇道にそれた理由には諸説があるようですが、徳川氏の吉例の道として代々の将軍上洛のときにこの道を通っていたことや、通信使一行の宿泊や休憩を受け入れるための施設が中山道より八幡や彦根を通るほうが便利だったと考えられています。
このことから通信使が何度となく通る道であり、世の人はこの道を「朝鮮人街道」と名づけるに至ったようです。
朝鮮人街道はよく曲がっていて、朝鮮の使者に日本の国の広さを誇示するためだという俗説もありますが、先にもふれたようにもともと集落との間を行き来する条里地割の畦道や野道を結んだもので、それが安土城や八幡城築城などによって統一ある主要道としたと考えられます。
昔からこの朝鮮人街道沿いには美しい松が並木として連なり、このことから「松街道」とも言われていました。しかしその松並木も第2次世界大戦頃より、戦時中のガソリン代用の松根油にするため伐採され、さらにその道もいまでは彦根・草津間の8号線のバイパスとして名称も「産業道路」と別名で呼ばれ、松自体、道路の拡張や舗装によりほとんど姿を消し、須田地先にわずかに面影が見られる程度です。道路一本にも、さまざまな歴史が感じられます。

【南須田地先に残る松のある街道風景(平成9年6月)】
【今付近より垣見をのぞむ(年代不詳)】
【県道大津・能登川・長浜線(能登川中学校前交差点/昭和46年)】

◆朝鮮人街道のルート

◆朝鮮人街道のルート(PDF 220KB)

現在の県道は、朝鮮人街道の部分部分をルートの一部として結んだものです。能登川町において古来の朝鮮人街道は、安土町との境の腰越峠より須田の集落を通り、繖山の裾野を巡った後、安楽寺を過ぎ、県道と交差する能登川の信号を越え、能登川の町並を過ぎて高岸台の手前で県道と合流します。そして有線放送前の信号を右折して踏切を渡り、(株)ツジトミ前を左折。突き当たりにあるびわこ銀行を右折後、住友生命ビル横の道を左折して、そのまま本町元町通りを過ぎ、垣見天神社横の道をまっすぐ(いまは鉄道で分断されていますが)不二家具の方へ向かって、現在の県道につながっていたようです。

町の玄関口・能登川駅の歩み

駅やバスは町の発展の度合いを見るバロメーターと言えます。駅が活気づいていたり、バスがたくさん発着している町は、同時ににぎわっています。また、同じように駅やバスの歩みを調べれば、どのように能登川が発展したかがうかがわれます。能登川は、周辺の町々に比べて近代の交通の歩みが歴史的に深い土地です。いままであまり注目されなかったこの歩みを少しでも知っていただければ、新たな能登川の歩みと発展の度合いを知ることになると思います。

【猪子踏切を越え、(株)ツジトミ前を左折(平成9年6月)】
【本町区元町通りの現在の様子(平成9年6月)】
【戦後間もない能登川駅の風景】
【昭和50年前後の駅の風景】
【現在の能登川駅舎(平成9年7月)】

◆能登川駅誕生の秘話

◆能登川駅誕生の秘話(PDF 220KB)

明治22年(1889)7月1日、東海道本線最後の未開通区間であった湖東線が全通し、同時に長岡(現近江長岡)、米原、彦根、能登川、八幡(現近江八幡)、草津の各駅が開設されました。つまり、能登川駅は他の周辺各駅がまだない頃から早くに存在した歴史深い駅です。
駅の開設理由としては、やはり水の豊かさが大きく影響し、長年能登川駅は、蒸気機関車の大切な給水駅であったのです。プラットホームの上り、下りホームにそれぞれ給水塔があり、蛇腹状の給水ホースによって蒸気機関車の炭水車に水が補給されていました。駅でひとときの休息を得る蒸気機関車の汽笛は、かつての能登川駅を物語るものでした。
それでは、この能登川駅。はじめからいまある位置に駅が開設される予定だったのでしょうか?
実ははじめの候補地は港町としてにぎわっていた浜能登川あたりだったのです。というのは、平坦な地形が、蒸気機関車が休むのに適していたからです。
しかし、調査の結果、地質が軟弱なことが影響して、この計画は却下されました。そのような折にクローズアップされてきたのが、もう一方の候補であった垣見あたりです。けれども、現在駅になっているこの地は、愛知川の土手に向かう勾配の途中になるため、けっして最良の駅候補地ではありませんでした。
しかし、駅開設の重要性を感じていた垣見の地主であった藤野太平氏によって土地が無償提供され、ことは一気に能登川駅建設へと進みました。
まだまだ鉄道への関心が薄かった当時に藤野氏の行動は、まさに先見の明であったと言えるでしょう。

能登川駅の今昔

さて、晴れて八幡村垣見と五峰村林の境界に誕生した能登川駅ですが、この能登川という駅名は、八幡村と五峰村の駅名騒動を緩和するため、港町として知名度が高かった能登川村の名を使用し、村どうしのいさかいを和らげようと考えたものとされています。また、開業当時の駅舎やプラットホームは非常に簡素なもので、駅舎の屋根がそのままのびてプラットホームの屋根に使用されていた具合でした。村の境界に建つ駅舎ですので五峰村林からお金を入れて、八幡村垣見から切符が出てくるという奇妙な逸話も残っています。ちなみに、当時の駅舎は現在と違って駅事務所が待合室側にあり、窓口のやりとりがいまとは反対の向きでした。
はじめは、田んぼの中に寂しく建っていた能登川駅ですが、やがて駅前に近江(奥田)製油の工場が、さらに日本カタン糸(現日清紡)などの工場が進出し、目をみはるにぎわいへと発展していきました。また、大正時代に安土や稲枝の駅が開設されましたが、前記の駅に停車しない列車も能登川駅には停車するなど、まさに地域の交通の要衝として重要な位置を占めていたのです。さらに、五個荘の豪商たちの利用もあって、かなり主要な駅にしか配属されない赤帽という手荷物運搬人が待機していました。このような繁栄の歴史のなか、昭和9年(1934)の室戸台風の際には駅舎が損壊し、改築されたという歴史もあります。改築された駅舎は、屋根の形が当時としてはモダンなものにされ、この駅舎は今も使用されています。
戦後になって、昭和31年には電化を迎え、さらに近年では彦根まで新快速が運転区間を延ばしたことにより、能登川駅も停車駅となって便利になりました。また、新駅舎の計画もあって、今後ますます町の玄関口として発展し、新しい1ページが生まれることでしょう。古き良き時代の能登川駅とともに大切に見守り続けたいものです。

【えびす講での様子(昭和46年)】
【現在の様子(平成9年6月)】
【奥田製油所の正門風景(年代不詳)】
【電化を祝う能登川駅(昭和31年)】

◆駅と村々を結んだバス

◆駅と村々を結んだバス(PDF 187KB)

わが能登川にバスがやってきたのは、大正9年(1920)に開業した愛知川の越溪自動車がはじまりで、愛知川と能登川駅前を結びました。
そして、大正10年になると、能登川駅前に神崎自動車が開業し、駅前と南五個荘村金堂とを行き来しました。
昭和に入って神崎自動車は、林と猪子、山路と乙女浜を結ぶ路線をそれぞれ設け、能登川を走るバスは発展していきます。
また、昭和10年代には伊庭の古沢医院が駅と伊庭を結ぶ路線を自ら設け、住民に喜ばれました。当時はバスのことを乗合自動車と呼びましたが、いまのように皆気軽に乗る乗り物ではなく、本当に特別なときにしか利用しない贅沢なものでした。
このように小さな路線バス会社が存在しましたが、戦時中の交通統合によって、越溪自動車や神崎自動車は、近江バスに吸収されることになり、燃料不足の戦時中には、車両の後に木炭ガス発生炉を装着した木炭バスがモクモク煙を吐きながら走っていました。その木炭の匂いは、少年たちにとって何ともかぐわしい香りであったそうです。
近年、栗見出在家行きや夏の臨時であった新海行きの路線が廃止されましたが、まだまだ八日市行きをメインに、路線バスは活躍しています。

【駅付近での交通安全教室(昭和47年)】
【十年ひと昔とはこのこと?(昭和62年)】
【伊庭大浜神社付近を走るボンネットバス(年代不詳)】

◆西垣見隧道
町内交通の要衝

西垣見隧道は、昭和51年(1976)3月1日に開通。立体交差工事着手は昭和49年10月1日からで、総工事費2億8205万8000円でした。立体交差ができるまでは、踏切を列車が通るたびに遮断機を手作業でおろす駅員が踏切番所に待機し、随時通行者の安全に務めてきました。
この隧道は現在大型車の通行はできませんが、あらたに駅東西の土地区画整理事業によって道路の拡幅ならびに地盤の掘り下げが計画されています。

びわ湖よし笛ロード

愛称「びわ湖よし笛ロード」の名で親しまれている大規模自転車道は県下初のスポーツ・レクリエーションを目的とした本格的な自転車道路です。

近江八幡市駅西の白鳥川を起点として安土町を通って、能登川町民体育館前までの延長26.2キロメートル(所要時間約3時間[7分/キロメートル])のこのコースは、昭和53年(1978)に工事着手し、9年の歳月と事業費約20億円をかけて昭和61年度に完成しました。
心地よい湖畔の風をうけながら、また山裾では木々にたわむれる小鳥のさえずりに耳を傾けながら、快適なサイクリングを楽しんでみてはいかがでしょう。

きぬがさ山トンネルの開通
より早く、より便利に

平成8年(1996)8月30日、五個荘町石馬寺地先で起工式が行われた「きぬがさ山トンネル」は平成10年3月の開通をめざして、現在建設中です。
この道路は県営きぬがさ山地区ふるさと農道緊急整備事業として幹線道路の整備に取り組んでいます。能登川と五個荘をトンネルで結ぶことにより、さらなる両町の交流促進、また農産物の流通拡大を図ろうとするもので、事業の完成により地域の東西交通は格段に改善されます。
さて、このきぬがさ山付近の通称「地獄越道」については、約120年も前に、ここを切り開き当時の須田村と当時の石馬村との往来を便利にして、広く地域の活性化を図ろうとする構想をもった人たちがいました。
この史実については、当時の南北須田村と石馬村などの住民48名が連署した「同盟本簿」という意見書(文書)が町内北須田で最近発見されたことで明らかになりました。
私たちの先人も短時間で五個荘町と往来できる道がほしいという切実な願いをもっており、この願いは120年の時を経てかないつつあり、トンネルの完成で両町はもとより、広く地域の活性化が図られることとなります。

【工事着工前(上段・昭和49年)と現在の様子(下段・平成9年)】
【びわ湖よし笛ロード開通の様子(昭和62年8月8日)】
【乙女浜地先(左後方にカヌーランド)】
【きぬがさ山トンネル工事(平成9年6月)】

◆穫る Agriculture

◆穫る Agriculture(PDF 539KB)

人間にとって農業とは何でしょう。
「農=生」農業は生命の保全、生活の充足、人生の創造によって人間の「生」を実現します。
いくら科学が発達しても、人間は木の葉一枚作れません。
そんなすばらしい農業が昔から今日まで続いています。

現在の農業

●1135戸が耕す1700ヘクタール
「田んぼが見えないところはない!」ような町ですが、いったいどれだけの農地があるのでしょう。
面積にして1700ヘクタール。町の全面積に対する比率は55パーセント。
見た目では8割ぐらいありそうですが、建物、道路、川、山などが占める面積も意外と多いのですね。
この広大な農地で農業を行っている農家は1135戸で、専業農家97戸、第1種兼業農家99戸、第2種兼業農家939戸で、勤めながら農業を行っている家が90パーセント以上を占めています。
また、農業従事者の61パーセントは60歳以上の方で、高齢化が進んでいます。

●米を中心に野菜、花の生産も盛ん!
生産額の最も大きいのは米。7540トンで、約24億円の生産額となっています。ちなみに、国民1人あたりの米の年間供給量67.8キログラムで割ると、11万1209人分という、町の人口の約5倍も供給できる量の米が生産されていることとなります。
野菜や花でも同様に、町の消費量の数倍作られているものも多くあります。野菜で生産額の多いのはトマト、かぶ、キャベツです。花では菊、ストレリチアの生産が盛んです。
しかし、このような野菜や花の大半は京都や大阪に出荷されており、スーパーマーケットや八百屋さんで見かけるのは、他県産や外国産の食料品がほとんどです。
畜産では、肉牛の肥育が多く、881頭飼われています。

能登川町の農業に関するのデータ
農家戸数 1,135戸(総世帯数の17.5%)
農家人口 5 ,399人(総人口の23.9%)
農業就業人口 1,3 1 1人(総就業人口の11.2%)
耕地面積 1,700ha(全面積の5 5 %)
「1995年農業センサス」より

【能登川町農産物マップ】
【近江大中牛】

農畜産物ベスト1 0
1位 米
2位 肉用牛
3位 トマト
4位 かぶ
5位 キャベツ
6位 豚
7位 ストレリチア
8位 きく
9位 小麦
10位 きゅうり
農林水産省1995年生産農業所得統計

◆機械化された農作業
現在の農業はどのように行われているのでしょうか。一言でいうと機械と農薬の開発で、作業は昔と比べると非常に楽になっています。
水稲の場合で見てみましょう。
春になるとトラクターで耕し、5月のゴールデンウィークになると、申し合わせたかのように一斉に田植えが行われます。田植えが終われば、雑草が生えてこないように除草剤を散布。夏になると農作物に被害をもたらす病害虫の防除はヘリコプターで行われます。秋にはコンバインで収穫して終わり。
農家版の三種の神器ともいえるトラクター、田植機、コンバインは8割から9割の農家が所有しており、どの農家でも同じような作業体系で行っています。

【乗用田植機による田植え】
【ヘリコプターによる農薬の空中散布】
【大型コンバインによる収穫作業(小川)】
【トマトの管理作業】
【キャベツ収穫風景】
【電照菊】
【ストレリチア】

◆農業の変遷

●新田開発、干拓で増えた農地、いまは減少中
琵琶湖に面するこの町は、江戸時代から戦中、戦後に至るまで新田開発が進められてきました。
栗見新田、栗見出在家は、江戸時代に新田として開発されました。
戦前・戦中から食糧増産のため、内湖の干拓が計画され、小中の湖干拓(きぬがさ、中洲、城東、中央)が昭和21年(1946)に完成しました。続いて、同年から大中の湖干拓の事業が計画され、41年に完成しました。45年に大中の湖干拓地の3分の1が能登川町に編入され、350ヘクタールの農地が増え、耕地面積は最高の1910ヘクタールとなりました。
その後、宅地開発や工場の進出等があり、210ヘクタールの農地が減り、現在は1700ヘクタールとなっています。
食糧増産の時代は農地を増やそうという国策で、琵琶湖を干拓してまで農地が増えてきましたが、ここ30年間で大中の3分の2にあたる農地がなくなったということになります。

●基盤整備で長方形の田んぼに変身!
農業の機械化に対応し、用排水を完備し田んぼの管理がしやすくなるよう、昭和39年から順次ほ場整備が進められています。
30アール区画のほ場に整備されるのがほとんどで、平成7年(1995)度で1240ヘクタールの農地のほ場整備が完了しています。

【耕地面積の推移】
【基盤整備の前後(上:整備前、下:整備後)県営ほ場整備事業能登川南部地区(昭和55~63年)】

●高度成長とともに減少した農家数
1960年代から専業農家、第1種兼業農家が減少し、第2種兼業農家が増加しました。高度経済成長により滋賀県にもあちこちに工場ができ、就業機会が拡大したことが最も大きい要因です。さらに農作業面で農業機械の普及や除草剤等の農薬の開発により、稲作りに必要な労働時間が少なくてすむようになり、時間的余裕が生まれたのも大きく影響しています。
最近の傾向として、専業農家は微増に向いており、離農する人から農地を借りるなどして規模拡大を行っています。安定的な恒常的勤務を主とする第2種兼業農家の変動は少ないのですが、規模の小さい人の離農の割合が増えきています。

●農協の歴史
農業協同組合法が昭和22年に施行されたのに伴い、能登川町では、旧村を中心に、五峰、伊庭、能登川、福堂、栗見、東能登川の6農協ができました。
昭和41年には大中の湖への入植が始まったのと同時に、大中の湖農業協同組合が発足しました。
昭和44年、五峰、伊庭、能登川、福堂、栗見の5農協が合併して、能登川町農業協同組合が発足しました。
その後、3農協の時代が長く続きましたが、農業を取り巻く状況がめまぐるしく変化するのに対応するため、農協組織の拡大が必要となり、平成6年に能登川町農協、大中の湖農協のほか、近江八幡市、八日市市、竜王町、安土町、日野町、五個荘町、永源寺町の9農協が合併して、グリーン近江農業協同組合が発足しました。

【農家戸数の推移】
【東能登川農協】
【手植えによる田植え作業】
【東能登川農協】
【JAグリーン近江大中の湖総合営農センター(旧大中の湖農協)】
【JAグリーン近江能登川総合営農センター(旧能登川町農協)】

◆獲る Fishing

◆獲る Fishing(PDF 202KB)

昔は漁業も生活の一部としてこの地域に根着いていました。
農地を増やすために最高の漁場であった内湖が干拓され、漁業は大幅に縮小しました。
しかし、昔の漁法を受け継ぎながら、現在も琵琶湖を舞台に漁業は繰り広げられています。

琵琶湖を舞台に魚を獲る!

●魚を獲る人
平成9年(1997年)現在、漁業を営んでいる人は能登川町漁業協同組合の組合員で、正組合員42名、準組合員14名、合計56名の組合員がいます。
組合の事務所は栗見出在家の浜辺にあり、そこから船で漁に出ていきます。

●活アユが漁獲高の半分を占める!
琵琶湖の魚といえば「アユ」。活アユの漁獲高が全体の半分を占めています。次いで多いのが「ワカサギ」。「フナ」や「コイ」は7位、8位の漁獲高となっています。年間漁獲高は28トンとなっています(平成8年)。
月別には、6月と11月が多くなっています。月別漁獲高は活アユの漁獲高と比例しており、活アユが多く獲れる時期は全体の漁獲高も多くなっています。活アユ漁は、1月と8~10月が休みで、11、12月が特採期間となっています。

【漁業協同組合での魚の仕分け】
【魚種別の割合(平成8年)】
【月別漁獲高(平成8年)】
【遠くから見た「えり」】
【「えり」漁の様子】

◆干拓前の漁業

●内湖の干拓で漁業は縮小へ!
琵琶湖の周囲にはかつて多くの内湖があり、琵琶湖とつながっていました。それらの多くは太平洋戦争中から昭和40年代にかけて、食糧増産の方針により干拓され、内湖は消滅または縮小されました。このため河川と琵琶湖の中間にあって一種のフィルターの役割を果たし、また魚の産卵場や稚魚の生育場として機能していた内湖の消滅が、漁業に及ぼした影響は甚大で、内湖の漁労習俗はほとんど姿を消すこととなりました。
ここでは、干拓前の内湖で行われていた漁業の姿を紹介します。

●明治時代には現在の約8倍の漁獲高!
中之湖(大中の湖、伊庭内湖、安土内湖、西ノ湖)に面した伊庭、乙女浜、福堂、栗見新田、栗見出在家では古くから農業のかたわら漁業が盛んに営まれてきました。水深が2.5メートルと浅く、マコモや葭類が湖辺に群生し、湖底には藻類が繁茂して、魚介類の生息には適していました。
明治30年(1897)には、433人(現在の約10倍)の漁業人口がありました。
漁業手段は、えり29、張網5、柴漬363の定置漁法のほか、サデ網、打網、掻網、四手網、根摺網など合計400ほどがあり、総漁獲高はコイ、フナ、ワタカなど、しめて5万8570貫(約219.6トン:現在の約8倍)ありました。

●当時の漁法 柴漬漁
柴漬漁とは、平安期の昔から行われていた漁法で、ネヤとも言います。
柴木を水中に漬けること1年、「そぶ」と呼ぶ水あかが柴につき、赤むしなどがわくと魚はここをすみかとします。さらに2、3年たつと魚には最適な環境となります。そして、冬になり寒くなると魚は柴に入ります。そこを、お正月などの需要期を見込んで、年に1度だけ漁に出ます。
柴の周りを簀で囲み、柴木を上げ、ついで投網をうって魚をとります。昔は、その水揚げ量で市場の値が下がると言われたほどでした。

【村別保有船舶数[1880年](滋賀県物産誌より)】
【柴漬漁の再現】

鮒ずし―やみつきになる発酵食品
鮒ずしは鎌倉時代からある最も古い形態のすしと考えられています。風邪をひいたときや腹痛のときにも良いと言われ、食生活になくてはならない存在でした。しかし最近では琵琶湖の水質悪化、護岸工事の影響、ブラックバスの侵入等で原料のニゴロブナの漁獲量が著しく減少しており、鮒
ずしは非常に高価なものとなっています。
製造法は簡単で、ニゴロブナを塩漬けした後、米飯と鮒を交互にかさね重石をして発酵させます。

◆つくる Manufacturing

◆つくる Manufacturing(PDF 469KB)

能登川の産業を統計上から見ると、「窯業・土石製品製造業」が大きな位置を占めています。
以前は繊維工業や葭・竹を使ったスダレ製品などが盛んでしたが、近年の繊維産業の構造不況などにより、その数字は順位が入れ替わりました。

地場産業

農耕を中心としたこの地域も、明治時代には地方産業として麻織物・葭・竹製品などの特産品を産するようになりました。とくに麻製品には県も力を入れ、明治44年(1911)に工業試験場を設けています。大正8年(1919)には日清紡の前身である日本カタン糸が設立されるなど、工業史の1ページを飾りました。しかし伝統産業とも言われた麻布の生産など、永い歴史のなかで栄枯盛衰を経たこれらは、新しい産業の台頭とともにその地位を譲ってしまいました。

【大正から昭和期にかけてこの町を潤(うるお)してきた繊維産業】
【愛知川の竹を利用した商品の製造】

産業分類別事業所製造品出荷額の移り変わり
[昭和46年]
食料品 ( 0.4%)
繊維工業 (19.3%)
衣服 ( 1.2%)
家具装備品( 1.9%)
窯業土石 (10.2%)
一般金属 ( 1.2%)

[平成6年]
食料品 ( 0.6%)
繊維工業 (85.1%)
衣服 (10.2%)
家具装備品( 1.3%)
窯業土石 (67.6%)
一般金属 ( 0.9%)

●滋賀県立能登川工業試験場
能登川の麻織物に着目していた県が、阿部市郎兵衛氏らの尽力もあり、明治44年(1911)に設立しました。現在は「滋賀県東北部工業技術センター能登川支所」と改称されています。

●麻糸の名を残す
農家副業の手紡大麻糸から外国亜麻製紡織糸に移行、明治34年に糸の主な仕入れ供給元として麻糸商会が設立されました。

●商店街
昭和30年(1955)の商店数は296店舗。大規模スーパーの進出をひかえ、変化のきざしを見せはじめました。そして、平成8年(1996)には近代化事業による工事が本格化し、商店街が大きく変わってきました。

【滋賀県東北部工業技術センター能登川支所】
【麻糸商会】
【元町通り商店街】

布団の「布」の字は能登川から
明治36年頃、阿部元太郎氏の発案により座布団の規格を定めました。そのとき、蒲団の「蒲」の字を麻布の「布」の字をとって「布団」としました。

●新しい工場の進出
昭和44年(1969)、地域開発と財源確保を目的に工場誘致が話し合われ、公害問題を乗りこえた昭和46年12月、特殊ガラスを生産する日本電気硝子能登川事業場の操業がはじまりました。
工場規模は、敷地面積2万3400平方メートルで年間生産高は約500億円あります。従業員は関連企業も含めると約1500名、そのうち町内からの通勤者は約500名にものぼります。現在、工場ではスムーズな生産活動による、安定した雇用推進を図るなど地域社会への貢献をめざしています。当町の主要産業であった繊維工業にとって代わり、窯業と分類されるこの産業は町内の製造品出荷額の約70パーセントを占めるにいたっています。平成2年(1990)、台風による愛知川決壊で大きな被害を受けた同工場では、今後の自然災害の防止対策を行政に期待しています。
また、ケーブルラックを中心に製造している電材メーカーネグロス電工は平成3年、当町が大阪と名古屋のほぼ中間点となることから物流の拠点として最適であり、工場立地に必要な面積の土地を得ることができる、などの理由から、神郷工業団地に進出してきました。
これらの新しい企業の進出は、当町の産業に活力を与え、能登川町発展の原動力となることでしょう。

【猪子山からの夜景】
【日本電気硝子】
【ネグロス電工】

●組紐
組紐の歴史は古く、奈良時代に中国・朝鮮から渡来したと伝えられています。かつて能登川町では、組紐が盛んに行われていたと言います。羽織の紐などを組み、「京組紐」として京都へ出荷されていました。そしていま「京組紐・信」によって新しい感覚の装飾品としてよみがえりつつあります。

●酒 造
増本酒造では、良質な愛知川の伏流水を汲み上げ、「薄桜」「能登川水車」など銘うった地酒を製造しています。

●飲料水
平成2年(1990)、能登川の豊富でおいしい水を求めてホーマーコーポレーションが大阪より移転してきました。こんこんと湧き出る水は「鈴鹿山系の水」としてさまざまな商品となり、全国へ出荷されています。そして平成6年の全国的な大渇水時や平成7年の阪神大震災には、ここの水が被災地へ続々と送られました。

【組紐をつくるみなさん】
【古い煙突が残る増本酒造】
【ホーマーコーポレーションの湧水貯蔵タンク】

◆伝統産業麻布の生産

◆伝統産業麻布の生産(PDF 89.7KB)

●「絣」の生産工程

近江上布と呼ばれる麻織物は、「ほぐし」「かすみ」などの手法を用いて生産されますが、ここでは伝統的な「絣」の生産工程を紹介します。

1 図案設計→2 整経→3 絣括り→4 染色下準備→5 染色→6 天日乾燥→7 絣ほぐし・絣経糸の柄合わせ→8 あぜ割り→9 筬通し→10 機巻き→11 機織り

近江上布
近江上布(麻織物の呼称)の起源は不詳ですが、秦荘の金剛輪寺に室町時代の文書が現存し、その当時麻布の製織が行われたことが記録されています。そもそも近江は周辺を山々に囲まれ、中央の琵琶湖より発する湿気が麻の製織に最適であり、またきれいな水質であったことが麻布発展の大きな要因となりました。
江戸時代に入り、彦根藩は農家の副業として麻製造に大いに力を入れ奨励しました。製織された麻布は、近江商人により全国に行商販売され、各地の物産の交流の中心となりました。

◆学ぶ Learning

◆学ぶ Learning(PDF 749KB)

いつでも(時間)、どこでも(空間)、だれとでも(仲間)学んで遊べる生涯学習時代。
でも、そのための基になるのは私たちが学び遊んだ小・中学校での生活です。
いくつになっても思い出す懐かしい友達・行事。

小学校

●能登川東小学校[校訓:切磋琢磨]
東小学校では、お互いに励まし合って学問を磨こうと「切磋琢磨」を校訓としています。ここで学んだ児童は、昭和57年(1982)の1019名をピークにして年々減少し、平成9年(1997)度は、654 名になりました。毎朝の早朝ランニングに始まり、各教科の学習や行事にいきいき取り組み、笑顔をそえた挨拶がすばらしい学校です。なかでも「東小まつり」の取組みは、全校の知恵と工夫にあふれ、充実した1日を過ごしています。

●能登川西小学校[校訓:よく学びよく遊べ]
能登川町の西部に位置し、田園に囲まれた落ち着いた環境の学校です。
このような環境の中、長年環境教育、同和教育に取り組み研究を進めてきました。児童数は286名(平成9年1月)、子どもたちは心豊かに育ってきています。教育目標に「恵まれた自然と文化に培い、自主的で心身ともにたくましい人間性豊かな児童を育成する。」を掲げ、
に にこにこあいさつ明るい子ども
し しっぱいしてもくじけずに
し 自然に親しむ元気な子
よ よりがんばろう、力を合わせ
う 美しい学校、西小学校
を合言葉に頑張っています。

●能登川南小学校[校訓:真理の光]
大正3年(1914)に五峯尋常小学校として創立されて以来、長い歴史と輝かしい伝統のもとに「地域に根ざした教育」を継続発展させています。
児童数573名、学級数18学級、教職員数26名(平成8年5月)で、「みんななかよく みがきあい」を合言葉に、「花を育てるフラワー活動」「さつまいもを育てるスクール農園活動」「野山から学ぶ猪子山活動」を通して自然を愛する情操豊かな教育実践を進めています。

●能登川北小学校[校訓:誠実]
児童数156名、学級数6学級(平成9年5月)の小規模校です。
「花と笑顔とあいさつのある学校」を合言葉に、全校児童と家庭・地域が一体となって取り組んでいます。
FBC花壇コンクールでは、春「中日賞」秋「優良賞」を受賞し、一人一鉢栽培など体験を重視した学習を大切にしています。
また、生活科・社会科を窓口として直接地域へ出かけていく「調べ学習」を実施し、校風と伝統を重んじ、郷土の良さを生かした教育を推進してきています。

中学校

●能登川中学校[校訓:強く正しくたくましく]
能登川中学校区は、昔から教育・文化に大変関心の高い地域で、教育環境も整備されています。
平成9年度は生徒数977 名、教職員51名の県下第一の大規模校でありながら、大変落ち着いた暖かい雰囲気の中で学習しています。とくに、生徒の良さが生かされ、潤いのある学級づくりを進めているところです。
一人ひとりの良さや可能性を生かす学習指導の実践については、多様な指導法を開発し積極的な授業改善に取り組んでいます。

【児童生徒数の推移(5月1日の在籍数)】

◆懐かしい学舎
幼い頃の想い出は、一緒に学び遊んだ仲間達、懐かしい学舎は私たちの心のふるさとです。

新校舎
東小学校(昭和54年12月竣工) 小川30
西小学校(昭和51年8月竣工) 伊庭2855
南小学校(昭和57年1月竣工) 猪子12
北小学校(昭和57年7月竣工) 福堂2877
中学校 (昭和59年4月18日竣工)山路30

旧校舎
東小旧校舎(明治14年10月23日創立)
西小旧校舎(昭和2年4月1日創立)
南小旧校舎(大正3年2月18日創立)
北小旧校舎(大正3年9月1日創立)
中学校旧校舎(昭和22年4月20日創立)

◆授業風景今昔

●昭和8年(1933)の授業科目(第四学年)
修身、国語、算術、地理、理科、図画、唱歌、体操、裁縫、手工、操行でした。

おじいさん、おばあさんの頃の学校生活
一年生の二学期から新しい学校へ入った。そのころの服装はみんな縞の着物に下駄かぞうりばきでふろしきづつみを腰に巻いて登校した。規律が厳しく毎朝朝礼があって授業ごとには廊下で級長が点呼して号令で教室にはいるのだった。また、学校の前には湖があって夏には水泳などして楽しんだ。いつも勉強する間もなく貧しくみんな「おしん」の様な生活だった。

創立記念日が10月13日なので、毎年運動会はその日に行われていて紅白の饅頭をもらいうれしかった。その頃の服装は、女は木綿の着物、男は黒の学生風の服、先生は着物とはかま袴だった。冬は雪が多かったので舟で氷を割りながら学校へ送ってもらった。

【校庭の全校合奏(昭和29年)】
【手づくりの授業】
【いまの子どもたちの時間割 第2第4土曜はお休みです。】

◆いま、そして…あのころ

【わかったことは……】
【そ~っといれるんだよ】
【美しい校舎にしよう】
【ハウスのおじさんおばさんが先生です】
【学校合宿(昭和49年)】
【1年入学記念(昭和50年)】
【運動会(昭和40年)】
【実験中(昭和35年)】

◆幼稚園

◆幼稚園(PDF 462KB)

●能登川第一幼稚園(佐野379)
昭和51年(1976)4月1日、学校法人みどり幼稚園より町営移管、5歳児保育がはじまりました。幼稚園のまわりは新しくできた住宅地で核家族が67.5パーセントを占めています。
「心豊かでたくましい子ども」を教育目標に戸外遊びを重視しています。
園のまわりの自然を生かした遊びや、探求・冒険心が発揮できる猪子山、長勝寺山などへの遠足、また、平成8年(1996)度より月1回、お年寄りの方との集いをもち、昔の遊びを教えてもらったり、ゲームをしたりして、ふれあいを深めています。

●能登川第二幼稚園(乙女浜176)
昭和54年、第二・第三・第四幼稚園が合併し2年保育の幼稚園として開設しました。
通園範囲が広いため、全園児の84パーセントまでがバス通園をしています。
「風と太陽が子どもを強くする」というスローガンのもと戸外遊びを重視し、遠足を多く取り入れ、自然環境を生かした遊びを工夫しています。
また、簡単なクッキングを取り入れた仲良しパーティーを実施し、生活体験を広げたり、友達との関わりを深めたりしています。

【能登川第一幼稚園】
【能登川第二幼稚園】
【おばあちゃん、じょうずねえ】
【ああ いい気持ち。プールってだ~いすき】
【ねえねえ 何かいる?】
【いまのうちにたくさん作ろうね】

◆保育園

●能登川保育所こばと園(乙女浜12)  昭和55年4月1日開園(園児数45名:平成9年)
●能登川保育所ひばり園(猪子203)  昭和56年4月1日開園(園児数63名:平成9年)
●能登川保育所めじろ園(種1596)  昭和57年4月1日開園(園児数56名:平成9年)
●能登川保育所つばめ園(小川258)  昭和58年4月1日開園(園児数28名:平成9年)
●能登川保育所かもめ園(栗見新田921) 昭和58年4月1日開園(園児数10名:平成9年)
●能登川保育所ちどり園(伊庭2933)  昭和59年4月1日開園(園児数64名:平成9年)

◆いろいろな学びの館

◆いろいろな学びの館(PDF 299KB)

●滋賀県立能登川高等学校(昭和38年創立)伊庭13
繖山の緑と清き流れの瓜生川に囲まれ、自然環境の豊かな学舎に未来を担う青年が集います。

●町立つくし児童館(平成元年開館)佐野341
「親と子の教室」「手づくり教室」等を開催する社会教育施設です。

●私立止揚学園(昭和37年開園)佐野885
現在40名(平成8年度)が在籍しています。知能に重い障害をもつ人たちの施設です。
ここは、「~のために」ではなく、障害をもつ人たちとともに目に見えないものを大切にしている施設です。

●滋賀県消防学校(昭和62年竣工)神郷314
県下の消防職員、消防団員その他消防関係職員に対する教育訓練を実施する研修施設です。

●私立梅花学園(昭和36年竣工)栗見出在家781
大阪府豊中市の学校法人梅花学園の宿泊施設です。夏期のみ使用されています。

●町立能登川高等家政学校(廃校)
昭和32年4月、能登川東小学校校舎に設立され、忠霊塔西側を経て36年3月、本町の中央薬品会社跡地に移りました。55年3月に廃校となり、23年間のつとめを終えました。家庭婦人養成のための学校でした。

◆校歌

不思議なことに、校歌を歌うと幼い頃の想い出が甦ってきたりします。
メロディが記憶を呼びさますのでしょうか?

能登川町立能登川中学校 作詞 相馬 次麿 作曲 那須原重孝
一、はるけき霊峰伊吹山
希望に燃える朝ぼらけ
見よはつらつの若人が
強く雄々しき信念に
民主ににおう学舎ぞ
げんたり能登川中学校
二、静けき麗湖びわの海
理想夢みる夕陽に
今研さんの若人が
直く明かるき教養に
文化に香る学舎ぞ
さんたり能登川中学校

能登川町立能登川南小学校 作詞 辻 悦蔵 作曲 多田 操
一、びわ湖の南そびえ立つ
五つの峰の 学び舎に
朝な夕なに 通いつつ
自然の幸につつまれて
明かるき子等は育つなり
二、瓜生の流れ 清らかに
歴史はたえじ 工業の
栄える土地に生い立ちて
真理の光 したいつつ
業にいそしむ強き子等

能登川町立能登川北小学校 作詞 藤村外治郎 作曲 池田 静治
一、さざなみよせる琵琶のうみ
希望の朝に光さす
おお精錬のわが学童
清き明るさ糧として
喜びつどう学舎ぞ
これぞ我等が北小学校
二、せせらぎ清き愛知の川
理想はるかに風を呼ぶ
おお誠実の我が学童
清き正しさ友として
喜びつどう学舎ぞ
これぞ我等が北小学校

能登川町立能登川東小学校 作詞 清水 光子 作曲 野田 暁春
一、鈴鹿の山の 空晴れて
緑かがやく 乎加の森
昇る朝日を 仰ぎつつ
大きな夢を えがくのだ
進もうみんな 声あげて
ああ 明るい東小学校
二、琵琶の湖 遠く照り
水美しい 垣見の荘
広野の風を 胸によび
若い力を 伸ばすのだ
励もうみんな 手をくんで
ああ 楽しい東小学校
能登川東小学校

能登川町立能登川西小学校 作詞 藤川 助三 作曲 多田 操
一、その名ゆかしき きぬがさの
峯の若松 すくすくと
日々にのびゆく姿こそ
わが行く末に 似たるかな
二、琵琶の浦波 打寄する
真砂の数の 限りなき
師の御教えを 仰ぎつつ
智徳のまだま 研がんかな
三、ああ能登川の 西学校
足なみそろえ 皆共に
文化日本 建設の
道堂々と 往かんかな

滋賀県立能登川高等学校 作詞:福島 崇雄、作曲:高木 昭順 
補修編曲:片岡 良和
一、鈴鹿嶺に 雲朝開き
若き日の 眉高くあげ
清らかに 正義を踏まん
われら胸 迫るものあり
二、きぬがさの 樹々にこだます
わがうたう 声よ朗らに
大いなる 歓喜に酔わん
わが心 燃ゆるものあり
三、比良山に 落陽は映ゆ
瞑想の 時よ静けく
ひそやかに 真理を思う
われら胸 響くものあり
四、湖に 波はたゆとう
豊かなる みのりを求め
ひたすらに 努め励まん
わが心 満つるものあり

◆暮らしを守る Public Facilities

◆暮らしを守る Public Facilities(PDF 230KB)

「地方の時代」という言葉は新しい時代をひらくキーワードです。
保健、福祉、防災をはじめ豊かな生活、住んでいてよかったと感じられるまちづくりをすすめるうえで、重要な役割を担っている官公庁等の横顔をのぞいてみましょう。

能登川町役場 「町民が主役のまちづくり」をめざす拠点として 躰光寺262 TEL42-1331(代表)
「能登川駅徒歩10分、鉄筋コンクリート造、築26年」という、建物はちょっと古いけど、能登川では比較的立地条件のよい場所で、町行政に関わる仕事が進められています。時代の流れとともに役場の業務も変化を見せており、従来の国や県などから指導される画一的なものに比べ、自治体独自の個性が重視される事業が増えています。
こうした中にあって今後の役場は、情報公開など通し広く住民に開かれた「まちづくり」の拠点になっていく必要がありそうです。

能登川病院 地域住民の健康を「優しく、頼もしく」守り続けて…… 猪子191 TEL42-1333
能登川病院は、昭和22年(1947)5月、日本医療団能登川診療所が国保直営診療所に移管されて誕生し、34年10月に猪子14番地1に病院庁舎(旧庁舎)を構え、以後30余年、地域住民の健康を守り続けてきました。
現在の病院庁舎(写真)は、平成7年(1995)4月に移転新築されたもので病床数130床、7つの診療科目(内科、外科、整形外科、小児科、眼科、耳鼻咽喉科、リハビリテーション科)をもつ総合病院に生まれ変わり、地域医療の中核として重要な位置を占めています。

能登川水車とカヌーランド お弁当を持って、のんびりと出かけてみませんか 伊庭1269 TEL42-3000(水車資料館)
関西最大級の水車が悠久の時の流れを刻むかのようにゆっくりと回る「能登川水車とカヌーランド」は、町民憩いの場となっています。建造は平成3年(1991)、当時の「ふるさと創生」事業の一環として水車資料館とともに整備されました。ここで夏に3回にわたって繰り広げられるドラゴンカヌー大会は、能登川の夏の風物詩としてすっかり定着しています。
また、春先や秋口には町内外から大勢の人が訪れ、芝生の上に弁当を広げる姿がのどかな雰囲気を醸し出します。

●能登川町保健センター 
生活習慣を見直そう!応援します、あなたの健康づくり 山路600 TEL42-5880
保健センターは昭和55年(1980)に竣工、以来町民の健康管理、健康づくりの拠点として機能しています。主な業務として各種の検診・予防接種、リハビリ教室などが実施されているほか、最近は料理教室などの栄養指導にも力が注がれています。
平成8年(1996)6月に「成人病」が「生活習慣病」と改められたように、近年は栄養のとり過ぎと慢性的な運動不足による生活習慣の乱れが問題視されており、今後センターの役割はますます大きくなると思われます。

能登川町温水プール 水割りがつくれるようなきれいな水で泳げます 垣見50 TEL42-6767
能登川町温水プールは、平成3年(1991)6月、町政50周年を記念して建造されました。プールは日本水泳連盟公認の25m×10コース、水質はセラミック濾過方式により日本屈指の清潔さを誇ります。ほかに採暖室(遠赤外線低温サウナ)やミーティングルームなどが設置されており、快適な遊泳が楽しめます。
一般遊泳は水曜~日曜(10:00~12:30、13:30~16:00、17:30~20:00)で、利用料金は大人1回500円、中学生以下300円、回数券1 1枚綴り5000円がお得です。

町民スポーツセンター 第3土曜日は家族でスポーツに親しんでみよう! 山路600 TEL42-5099
町民スポーツセンターは、昭和54(1979)年3月に体育館を竣工、次いで翌年に武道館、同年9月にグラウンドを整備し、56年10月には、第36回国民体育大会のボクシング競技会場となりました。
体育館は、バスケットコートが楽に2面とれる広さがあり、中学校のクラブ活動や9人制バレーボールの強豪・日清紡チームの練習などにも使用されています。
また、毎月第3土曜日の「家庭の日」には、一般向けに無料開放されています。

ふれあい運動公園 広さは甲子園球場の3.1倍、多目的に使えます 栗見新田
平成8年(1996)5月、愛知川下流左岸(栗見新田地先)に面積12ヘクタールあまりの広大な運動公園が誕生しました。この公園は、平成2年の台風で決壊した愛知川堤防の復旧事業に伴って整備されたもので、パターゴルフ場(利用料金1人200円)、サッカーグラウンド、ソフトボールグラウンドなどが設けられています。ここには広い芝生広場があり、毎年秋にはここを会場に「ふれあいフェア」が開催され、各種の模擬店やフリーマーケットなどでにぎわいます。

やわらぎの郷公園

やわらぎの郷公園(PDF 285KB)

自然とふれあう、おもいっきり体を動かす 南須田4 TEL42-6880
繖山の深い緑にいだかれた「やわらぎの郷公園」は、四季おりおりに自然のすばらしさを感じさせてくれる憩いのスポットです。この公園には屋根付多目的広場が設けられており、天候に関係なくゲートボールなどが行えるほか、毎年5月には町民ふれあいの綱引き大会が開催され、「ヨイショ、ヨイショ」のかけ声があたり一面にこだまします。
ほかにテニスコートや広大な芝生広場があり、自然の中でさわやかにスポーツを楽しむことができます。

中央公民館 「生涯学習」は時代のトレンド、……さぁ、あなたも! 猪子1 TEL42‐3200
町の文化活動の拠点が、この中央公民館です。平成9年(1997)4月現在70の文化サークルが登録されており、連日多くの人が訪れ、文化活動にいそしんでおられます。近年は「生涯学習」という言葉が時代のトレンドとなっており、各種の講演会や発表会の開催のほか、6月には公民館まつり、11月には町文化祭が開かれ、各サークルの日頃の活動成果が発表されます。駅に近い立地条件から、気軽に利用できる施設として今後の活用が期待されます。

文化小劇場やわらぎホール 能登川町で一番大きな畳の部屋が自慢です 躰光寺254-3 TEL42-2277
能登川町で一番大きな畳の部屋は「文化小劇場やわらぎホール」の中にあります。この施設は、昭和62年(1987)に町民の文化活動の振興を目的として作られました。近年、他市町村で建設されているホールは椅子式のものが多い中で、能登川町のやわらぎホールは約150畳の広さの畳敷きになっており、さまざまな文化活動や発表会、各種の会合などに幅広く利用されています。日本の生活様式の中では、やはり畳の部屋が利用しやすいように感じます。

きぬがさコミュニティセンター 三角屋根の建物の中で丸い人の輪が広がります 能登川1533 TEL42‐6421
大字能登川のはずれの田んぼの中に、三角屋根の一風変わった建物があります。この建物が「きぬがさコミュニティセンター」で、平成元年(1989)4月に建築されました。建物には大きな中庭が設けてあり、回廊式になっている廊下にはやさしい日差しが降り注ぎます。主に会議や研修などの住民活動の場として利用されていますが、この建物の中に能登川町シルバー人材センターの事務局があり、高齢社会に対応する生きがいづくりが図られています。

障害者福祉センター「水車野園」 福祉のますますの充実を、利用者の使いやすさを配慮 乙女浜1405 TEL45-1177
平成5年(1993)4月、身体に障害をもっておられるかたがたの自立や生活改善、社会参加の手助けなどを目的として建築されたのが、障害者福祉センター「水車野園」です。建物は段差などがほとんどない構造となっており、利用者にハンディキャップを感じさせない配慮がされています。現在、ここでは障害者向けのディサービスやホームヘルプサービスなどが展開されているほか、ボランティア活動の拠点ともなっており、今後のよりよい運用が期待されています。

能登川町老人福祉センター 人生の午後3時は、こんな場所でお茶を飲んでみたい 伊庭6 TEL42-5205
猪子山ふもとの豊かな緑につつまれた一角に、能登川町老人福祉センターがあります。建物は昭和55年(1980)3月に完成、現在ここには町老人クラブ連合会の事務局がおかれており、年間を通じてお年寄りのかたが主体となったさまざまな活動が展開されています。また、町社会福祉協議会の事務局もおかれており、町役場の福祉課と連携をもった福祉活動の中心となっています。和室の窓からは猪子山の四季の移り変わりが感じとれる落ち着いた建物です。

水道配水タンク 能登川町民の水がめは、こんなに大きいのです 北須田
町内須田の山道を不動の滝に向かって歩いていくと、山の中に突然巨大なタンクが出現します。なにを隠そう、このタンクが能登川町民の水がめで、近江八幡市の長命寺沖で取水された水が浄水場で浄化されてここに送られ貯蔵されます。容積はおよそ354万リットル(ドラム缶1万7700本)もあり、ここから水道管を通じて町内の各家庭や工場などに水が供給されています。能登川町全体では、1日にこのタンク2杯分の水を使うそうです。

有線放送本部 地域の身近な情報をリアルタイムで親しみやすく  林266-1 TEL42-0169 有線2002
有線放送の1日は、午前6時の「おはよう有線」で始まります。現在、有線放送では1日に8回の放送プログラムが組まれており、町内の動きをはじめ各種イベントなどの収録や緊急放送など、私たちの生活に密着した情報が流されています。1日の終わりは、午後8時50分からの「おやすみタイム」です。この放送の最後には「どうぞ、ごゆっくりお休みください」というナレーションがあり、これを聞いて寝るとよい夢が見られるというのは本当……?

中部粗大ゴミ処理場

中部粗大ゴミ処理場(PDF 130KB)

ダイエットを考えるなら、ゴミも一緒に! 種528 TEL42‐2294
第2次世界大戦後、日本は高度成長の波に乗り大量生産・大量消費の時代が到来しました。こうした中で問題となってきたのがゴミの処理です。
ゴミ処理については、現在中部地域の2市7町で構成する事務組合により、燃えるゴミは日野町で、燃えないゴミは町内大字種にある処理場(写真)で処理されています。この処理場に搬入されるゴミの量は、年間約5200トンもあり、ダイエットしなければならないのは人間だけではなさそうです。

能登川消防署 まさかの時の頼りです。でも一人ひとりが火の用心! 佐野730-1 TEL42-0119
「親父」があまり恐ろしくなくなった近年で、依然恐ろしいのが「地震・かみなり・火事」です。能登川消防署では、こうした“まさか”の事態に備え2 4時間体制での安全監視が続けられています。平成9年(1997)4月現在、能登川消防署には消防車2台と救急車1台が配備されており、非常事態に備えいつでも出動できる体制がとれています。町内では年間平均3~4件の火災が発生していますが、できれば消防署の仕事は訓練だけになってほしいものです。

交番(警察) 安全、安心の生活を守り続けて…… 垣見876-13 TEL42-0165
世界屈指と言われる日本の治安の良さを縁の下から支えているのが「お巡りさん」です。
能登川町は、八日市警察署の管轄になっており、町内にはその出先として3つの交番があります。その1つが能登川駅前派出所(写真)で、ちょっとおしゃれな建物に金色の「KOUBAN」の文字がよく映えています。
町内にはほかに伊庭と福堂にもそれぞれ交番があり、交通や防犯などの面できめ細かに私たちの安全な生活が見守られています。

郵便局 心のこもった「おたより」だから、大切に、手際よく! 佐野735-3 TEL42-1010
能登川町には3つの郵便局があります。なかでも能登川郵便局(写真)は、能登川の郵政事業の中心で、1日に約8500~9000通のハガキや手紙が扱われています。町内では、ほかに福堂と能登川にも郵便局があり、郵便はもちろんのこと、預貯金や保険などの業務も扱われています。ちょっとおもしろいのが大字能登川にある郵便局で、ここは昔、港があったことにちなんで現在は陸地のまん中にあるにもかかわらず「港」郵便局という名前が残されています。

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